上 手前みそ 食文化伝え安全守る
横手市中央町の会社社長多賀糸敏雄さん(64)は2月、自宅物置のすみで、大きな古い木製のみそ樽(だる)を見つけた。中には3分の1ほどみそが残っていた。「お前が高校を卒業した年のみそだよ」。母は1962年に漬けたみそだと覚えていた。みそは真っ黒に変色し、甘みを含んだ豆の風味は衰えていた。だが、口に運ぶと濃厚なコクとうまみが広がった。46年前からゆっくりと発酵を続けたみそは、実に半世紀近くにわたって生きていた。
「何十年も前に作ったみそが今も味わえるなんて、ほかの食材では考えられない。横手には古くから伝わるそんな食文化が根付いている」。興奮気味に話す多賀糸さん。若いころ、当たり前のように食卓に並べられた母手製のみそ漬けを思い出し、このみそにキュウリやニンジンを漬け、ご飯のお供にしている。
冬の間、深い雪に覆われる横手盆地。雪解けが進み、白鳥たちがシベリアへ旅立つこの時期、横手市黒川の佐藤寿信さん(54)は麹(こうじ)作りの準備に取りかかる。
看板こそ掛かってないが、「黒川の麹(こうじ)屋」と言えば佐藤さん。4月になれば、近くの農家からコメや大豆が次々と持ち込まれ、みそ作りの依頼は、毎年、300件に上る。「コメ1斗、豆1斗」。そんな各家庭オリジナルのレシピも添えられる。
秋田経済研究所(秋田市)が1990年にまとめたリポートによると、県内では4割近くがみそを自宅で作り、約3割は麹屋などに委託。こうして作られた「手前みそ」は、まさに自慢の味。日々の食卓に欠かせないみそ汁や漬物だけに、慣れ親しんだ味をそう簡単には手放せない。
横手市内には、製麹(せいきく)組合が解散した89年当時、29軒の麹屋があった。後継者不足で経営をあきらめる業者も少なくないが、手前みそにこだわる地元住民の要望に応えようと、佐藤さんのような“看板のない麹屋”は今も市内に20軒近く残る。
麹作りには4日間かかる。研いだ米を半日水に浸して蒸す。種麹をまぶして平たい箱に入れ、「室(むろ)」と呼ばれる麹を作る専用の小部屋に移す。ストーブで30度超に保ったまま3日間発酵させると、麹が完成する。みそを作る場合はさらに、煮た大豆に麹と塩を混ぜて発酵。常温で半年以上ねかせると、雪がちらつく11月ごろには、ふっくらとしたみその香りが立ち始める。
酵母菌に素材を委ねることでうまみを引き出す発酵食品。時間がかかることに疑問を持つことなく、依頼者は1年分のみそをまとめて購入する。
佐藤さんは発酵の未来に期待を込めて言う。
「多少値が張っても、安全でおいしいものが欲しいという都会の人からの注文もある。古くから地域に伝わる食文化を守ることで、食の安全を守ることにもなる」
麹は、コメが豊富に取れる秋田県を代表する食文化だ。コメを食べるだけでなく、麹にしてみそを作り、収穫した野菜を漬物にして保存した。雪に覆われる農閑期には酒造りが盛んになった。29、30日に横手市赤坂の秋田ふるさと村で開かれる「全国発酵食品サミット」を前に、地域に根付く発酵文化を探ってみたい。
21世紀は発酵の世紀 小泉武夫・東京農大教授(発酵学)
横手市には古くからの造り酒屋や漬物屋が残り、家庭でも当たり前のように納豆汁などが伝わってきた。発酵食品を生かした生活の知恵が多く残っており、生産者も加工業者も発酵文化を守ろうという意識が高い。
20世紀は、科学技術が発達し、環境、健康、食糧不足、エネルギーなどの問題が噴出した。21世紀に入って直面しているこれらの問題に対し、地球と人間に優しい発酵の力で解決する「FT(Fermentation Technology、発酵技術)革命」を提唱している。21世紀は「発酵の世紀」になるだろう。
生ゴミは、発酵させれば堆肥(たいひ)になるため、焼却処分するより環境に優しい。発酵食品は体にいいとされているだけでなく、がん細胞の増殖を防ぐ微生物の研究も行われている。将来、発酵の力で特効薬の開発も期待できる。
発酵が食料危機を救う可能性もある。落ち葉の繊維を微生物が分解すると、人間に不可欠なブドウ糖を作ることができる。食糧難で穀物が不足したら、発酵の力で栄養分を摂取できる。
また、水を発酵させる細菌の研究が進められている。水素と酸素に分解する際に生じるエネルギーは、有害な成分を含まないクリーンエネルギーである。
出典:読売新聞