こんにちは! 現役高校教員のてーちゃーです。


今回は、既に過去の言葉となりますが、「アクティブ・ラーニング」について考察していきたいと思います。


しかし、今回繰り広げる批判は、概ね「アクティブ・ラーニング」を包含する「主体的・対話的で深い学び」にも当てはまっていくと思います。


まず、「アクティブ」なことも「ラーニング」もまことに結構なことでありまして、「アクティブなラーニング」そのものを否定するつもりなど毛頭無いことを最初に申し上げねばならないでしょう。


私が気持ち悪く感じるのは、そういう用語を売り出すことを自分達の業績にしてしまう人達と、それをすんなり認めてしまう人達です。

この種の用語というものはどういう思考回路から生まれるかと考えると、目指すものの意味合いを明確化できなくても、ぼんやりと捉えておいて、ただし肯定的な意味合いであることを約束させておいて、「中身は現場の人間が考えろ」という放り投げです。


さて、このように、そもそも非常にろくでもない出自をもつアクティブ・ラーニングですから、それを批判する人達はこれまでにも沢山いました。

しかし、不思議なことに、私の調べ方が不十分なせいかもしれませんが、アクティブ・ラーニングに対して懐疑主義的な人達が大々的にフォーラムを形成したり、徒党を組んで啓発活動を行なったというようなことは、あまり耳にしません。アクティブ・ラーニングを広めようとした人達と比較すれば、その勢力差や活動の活発さは月とスッポンと言っても良いでしょう。


アクティブ・ラーニングの是非はともかく、このような偏った言論の状況は、文部科学省と教育委員会が、現場の教員の考える力を奪っている結果にも思えます。そんな人達が、子どもたちにはアクティブであることを求めるなんて、その柔軟な思考には開いた口が塞がりません。


さて、本題ですが、私自身が一番頻繁に耳にしたアクティブ・ラーニング批判は「どんな方法や、どんな形態にしろ、何かを学んでいるときの頭の状態はアクティブだろう」と、いうものです。


これは「見た目の活動状態からは、頭の中がどれくらい活発にはたらいているのかは、基本的には分からない」という重要なことを指摘していますので、覚えておくに値します。


しかし「アクティブ」という言葉をこのよう捉えてしまっては、比較的、相対的に「アクティブ」度合いが低い状態としての「非アクティブ」=「パッシブ」の存在を認めないことになりかねず、議論は深まりに欠けたものとなり、また、現在の生徒たちの状況を説明したり、改善したりするために有効な議論にはなりにくいように思われるのです。


私の立場としては、「頭の中がどれくらいアクティブ」かはともかく、「活動」を比較すれば、アクティブさの度合いの大まかな順位付けは可能だと思います。

基本的には、講義を受けている状態より、議論をしている状態や、発表をしている状態の方がアクティブなことは認めても良いでしょう。

ただし、それがどれだけ活動としてアクティブなのかということと、学習として効果的かどうかということは、全くの別問題です。


結論から言えば、どの活動が効果的な学習かは時と場合によります。


いや、そんなの当たり前だろ、こんだけ引っ張って、そんなショボい結論言うなや、と思って下されば健全です。そんな健全さが欠落しているのが、教育の現場なのです。


時と場合というのを、もう少し具体的に言えば、学習する題材によって、講義で説明した方がやりやすかったり、議論で取り上げると盛り上がりやすい題材というものがあります。そこまでは、バカでもわかるんですけどね。


私が思うに、一番肝心なことは、学習形態を切り替えることによって、授業の単調さを切り替えてあげることが、最も効果的です。

どの学習形態でも、どんな題材でも、同じ形態で学んでいれば飽きるのです。それは人間として極めて真っ当な反応です。退屈さを感じることができる人間だけが、本当に面白いものの価値を理解できるのです。


と、いうことは、生徒に議論や発表のようなアクティブ度の高い活動を続けさせて、とうとう飽きてきた生徒が多くなってきた場合には、逆に思いっきり受動的な活動をさせることですら、刺激的で効果的な場合があります。


私は生徒に一切の発言を許さないどころか、ノートを取ることすら禁じて、ひたすら講義を受けさせる「パッシブ・ラーニング」を考案し、1時間の半分だけ実行に移しました。

その間は、教室は異様な緊張感と集中に包まれていたように思えました。やってるこっち側も大変ですが、生徒にとってもやはり、本当にただただきくというのは大変なことのようでした。


さて、今回は、あまり明確な結論は出ませんでしたが、アクティブ・ラーニングに関して言いたかった文句を沢山吐き出すことができて、私は大変スッキリいたしました。


アクティブ・ラーニングについては、構成主義とか構築主義とかいう、ある意味そうとう危険な思考との関連という問題もあるのですが、この点については、余りにも調査不足なので、いつか取り上げることにして、今回はここで文章を閉じたいと思います。