ポイズンドーター・ホーリーマザーを読んだ。

タイトルは「毒親」ではなく「毒娘」と「聖母」である。
個人的に最近、「毒親」でインターネット検索するより「毒娘」で検索することが多い。
私のことを「毒娘」と思っているだろう母の気持ちが知りたいからだ。
だからこの本のタイトルを見たとき、読まなければならない、と思った。

毒親育ちだと思っている主人公目線と、
その主人公は毒親育ちではなくむしろ「毒娘」だと考える主人公の友人目線から書かれた作品だ。

主人公の母の毒親の程度は、私と共通する部分を感じる。
進路、友人関係など、その全てを自分の理想通りにしたいと考える母。
娘の意思を尊重せず、自分の考える生き方が最善だと信じて疑わない。
「娘のためを思って」言っていることは分かっている。
それでも、自分のしたい生き方ができなかったことを責めずにいられない。

一方、主人公の友人は、その考えを否定する。
娘に売春をさせそのお金で生活し、娘の婚約者にまで金を無心するような母親だってこの世にはいるのに、
そんな程度で自分の親を「毒親」だなんて言うなんてひどい、と。

「危険を回避し、安全な道に子どもを導いてやることも、親の役割ではないかと私は思うのです。」
「子どもの友人が、万引きや薬物を勧めるような相手だと解っても、あの子と付き合ってはいけないと言ってはいけないのでしょうか?」
「子どもは親に守られていたことを、自らが親にならなければ気付けないのではないかと思う。」

主人公にはこんな言葉が投げられる。

私も、仮に公の場で自身の親に対する気持ちを吐露したとしたら、
こんな反響になるんだろうなと思った。

虐待をしたなんてとんでもない、
むしろ娘のためを思って進言していただけで、「毒親」認定されるなんて。
今娘が定職に就き、無難な相手と結婚して子どもを産んだ、という事実はむしろ自分の教育の賜物なのではないか。
ともすれば非行に走っていたかもしれない危うい娘を守れたのは、他でもない自分だけだ。
母はこう思っているのだろう。

私も幼い娘がいるが、育児には明確な方法がなく本当に難しい。
両者がお互いの関係に満足していれば、それが正解なのだと思うが、
正解に行き着くまでには試行錯誤があるのだと思う。
だって娘は自分ではなく、個を持った別の人間なのだから。

私は母に、もっと自分を知ってほしかった。
決めつけられるばかりで、私の考えを知ろうともせず、自分の意見を押し付けられたことが一番辛かった。
最も身近な大好きな人に、自分を受け入れてもらいたかった。

この程度で自身の親を「毒親」認定することは、世間からは良く思われないのだろう。
だけど、自己否定し続けて生きていくのはあまりにも辛い。
私にとって「毒親育ち」と意識していくことは、
親を責めることではなく、自分を守ることが一番の目的だ。