まほうの水

 歩き始めてから約2時間。孝介は、すっかり葉を落とした森の小道で休んでいた。ここから今夜泊まろうとしているこの先の温泉宿までは緩やかな下り道で、ゆっくりと1時間も歩けば宿に到着する。
 この一帯は、正月を過ぎる頃から急激に雪が降り積もるようになり、スキー板を装着していないと身動きが容易にできない程になってしまうのだが、今はまだ12月になったばかりなので、足首までしか雪はなく、歩けばサクサクとした感触が足元から心地よく伝わってくる。
 孝介は独り暮らしの34才。とある地方の公務員で、気遣いのいらない一人での山歩きを月に一度の息抜きとしている。孝介はこの森が好きで、とりわけ、人とほとんど会うことのないこの時期には必ずここへやってくるのであった。
 孝介が今休みを入れているところは水場である。湧き口の上には、古ぼけた字で木札に「変命水」と記されている。普段はほぼ一年を通して枯れているのだが、今日に限っては珍しくシャラ シャラと元気よく音を立てて流れ出ていた。珍しく思った孝介は、その水を沸かし、コーヒーにして飲んだ。山でコーヒーを飲む時は、ドロリと濃くしたブラックにする。苦味で顔を歪ませてブラックを飲む時、孝介の心はのんびりとした幸福感で満たされる。
 が…。
 「昨日は、ちょっと言い過ぎたかもしれないな。」
 足元に、ぽとりと言葉が落ちた。
 孝介は、苦そうにコーヒーを啜りながら昨夜の出来事を思い浮かべていた。実は、昨夜、孝介は恋人のえり子と些細なことから口論となり、えり子の右頬をつい叩いてしまったのだ。怒号に続いて、パチンという冷たく他を寄せつけない厳しい音が、えり子の部屋の隅々にまで染みわたった。孝介がハッと我に帰った時、えり子の右頬は一筋の涙に濡れていた。右頬は次第に淡い紅色を帯び始め、流れた涙の跡が蛍光灯の明かりで寂しく光っていた。孝介は、重苦しい空気に満ちたえり子の部屋を逃げるように飛び出した…。
 コーヒーを飲み干し、ぼんやりとした気持ちで、孝介は上空を仰いだ。青く澄み渡った空のはるか高方で、一筋の飛行機雲が寂しく輝いていた。昨夜の情景を、空に重ね合わせた孝介であった。

 数羽のカラ類が混群を形成しながら、孝介を森の中へ誘っているかのようにすぐそばを横切っていった。
「チョット、チョット。コッチ、コッチ。」
野鳥たちが軽やかにさえずりながら、ダケカンバの枝々を渡っていった。
「オーイ。チョッ、チョット。オーイ。」
と、やや慌て気味にコゲラがその後を追いかけていった。コゲラは冬の間、ヒガラやコガラなどと一緒に過ごすのである。
 時折、山頂近くで激しく噴出している蒸気の轟音が、森の上をかすめながら走り過ぎて行く風の音と交互に折り重なって聞こえてくる。
 孝介が立ち上がろうとした時、道の前方に一頭の雌鹿が飛び現れた。鹿はじっと孝介を見ていた。風がひとつ森の中を駆け抜けた。
「今日は珍しく風がないわね。」
 どこからともなく、女性の話し声のようなものがした。孝介は辺りを見回したが、人の姿はどこにも見当たらなかった。
(おかしいな。風のいたずらか…。)
昨夜の出来事をちらりと思い出し、頬の端でフッと笑った。
「でも、たまに吹く風から湿気を感じるから、明日は大雪になるわ。」
 今度は、はっきりと聞いた。言葉の隅々まで聞き取ることができた。しかし、相変わらず姿は見えない。そこにいるのは雌鹿一頭だけである。
 鹿は孝介を見つめたまま視線を逸らさなかった。孝介も、その鹿を見つめ返す。まさか、と、孝介は思った。視線を足元に移し、頭の後ろを5本指で掻きながら、
「まさか…な。オレも、どうかしている。」
と、今度は口に出して呟いた。
「どうもしていないわ。あの水を飲んだでしょ。さあ、私の後について来て。」
と、孝介の目の前にいる一頭の雌鹿が明らかに人の言葉を発すると、小さく飛び跳ねるように笹に覆われたダケカンバの森の中に入っていった。
 孝介は訳が分からなくなった。そして、ふらりふらりと立ち上がり、鹿の後を追うように森の中へ奥深く入っていった。
 孝介は、起伏のない平坦な森の中をしばらく歩き続けた。辺りはすっかり夕闇に包まれていた。膝の高さまである笹の絨毯と葉を落としたダケカンバの森は見渡す限りどこまでも続いていた。
 それにしても、孝介の頭の中は不思議な気持ちでいっぱいだった。たまりかねて、前を行く雌鹿に訪ねてみようとした。が、次の瞬間、鹿は前方へ大きく飛び跳ね、闇の中に姿を消した。しんと静まりきった夕闇が森を包み込んだ。底知れぬ不安と恐怖心が孝介の四肢を縛り上げた。孝介はそれを振り解くように、喉の奥でわーっと叫びながら無我夢中で闇の中を走り出した。
 突然、笹に覆われた森が開けた。
「……!」
 孝介は、瞠目した。孝介の目の前には、目映いばかりの白銀の世界がどこまでも広がっていたのだった。日は既に沈んでいる。にもかかわらず、あたり一面が真っ白な雪でキラキラと輝いていた。
 
つづきのおわり。

 ※この物語はフィクションで、ここに登場する人物、場所その他の名称等は架空であり、実在のものとは一切関係ない事を申し添えます。