藤原兼通(カネミチ)は右大臣・師輔の次男、伊尹
(コレタダ)の同母(藤原経邦の娘・盛子)の弟、
三男・兼家(カネイエ)も同母で、二人の昇進争い
は苛烈を極めた。伊尹が病に伏し、危篤に
陥って辞意を示す上表を行ったが、それを
知った兼通と兼家は早くも次の日には円融
天皇の御前で後任を巡って口論を始めた。
兼通は、天皇が幼い頃に亡くなった母后の
安子(同母妹)から受けた書付"将来、摂関
たることあれば、必ず兄弟の順序に従って
補任すること"を見せ、円融天皇は亡き母
の遺命に従うこととしたと云う。

兼通に対して内覧が許されると、伊尹薨去
を経て、兼通は権中納言から一挙に内大臣
に引き上げられた。この一連の経過を受け、
藤原済時は大納言を経ずに兼通が内大臣に
就任したこと、この人事を行った円融天皇、
更にはこれを止めなかった右大臣・頼忠を
強く非難している。兼通の関白就任後には、
兼家の昇進を全く止めたばかりか、異母弟
の為光を筆頭大納言として兼家の上位に
就ける程であった。

兼通が重い病に伏した時、兼家は早速天皇
に後任を奏請つもりだった。これを知った
兼通は激怒して起き上がり、病をおしての
参内、兼家はちょうど天皇に奏請していた
最中に兼通が現れたため、驚愕して他所へ
逃げてしまった。兼通は最後の除目を行う
と宣言し、左大臣頼忠をもって自分の後任
の関白とした。その上、兼家の右近衛大将
の職を解き治部卿へ降格してしまった。
天皇もその気魄に逆らえなかった。兼通は
居並ぶ公卿たちを顧みて、右近衛大将を
欲する者はないかと問う。公卿たちは言葉
も出なかったが、中納言・藤原済時が進み
出て求め、右近衛大将に任じられた。
兼通はそれから程無く薨去(享年53)。

兼通の長男顕光(アキミツ)は、陽成天皇の皇子
元平親王の娘昭子女王を母とし、父が関白
になると引き立てられ昇進するも、弟朝光
(アサミツ)に越されてしまう。兼通が死去して、
政界の主導権を兼家が握ると顕光の昇進は
止まり、兼家の子(道隆・道兼・道長)に次々
と追い抜かれる。兼家が死去すると、道隆
が関白となり、弟朝光は闊達な才人であり
加えて酒を通じて道隆に近く、顕光中納言
に対して、既に大納言に昇進していた。
長徳の疫病で公卿が次々と罹患して死に、
朝光も病没する。関白・道隆も平素からの
大酒が原因で病死した。代わって弟・道兼
が関白になるが、疫病に倒れわずか数日で
死去。この疫病の猖獗により多数の大官が
没したため、顕光は権大納言に昇進した。

顕光は娘元子を一条天皇に女御として入内
させるも、皇子を産まず未亡人となった。
元子が参議・源頼定と恋仲になったことで、
顕光は激怒して勘当したが、元子は頼定と
駆け落ちし、後に娘を二人儲けた。顕光は
邸宅の堀河第を妹・延子(ノブコ)のみに継承。
延子は三条天皇の第一皇子・敦明親王(後の
小一条院)妃で二男一女を儲けた。第68代
後一条天皇の即位で、敦明親王は皇太子に
たてられるも、翌年皇太子を辞退、これに
より道長の孫敦良親王(後の後朱雀天皇)を
皇太子につけることができた藤原道長は、
小一条院を娘寛子の婿に迎えて厚遇した。
小一条院は寛子の高松殿に移り、堀河殿の
延子のことを顧みなくなり、延子は悲嘆の
あまり健康を損ね、寂しく世を去った。
顕光は、2年後に失意の中に薨去(享年78)。

顕光の死後に、延子から敦明親王を奪った
寛子が病死、続いて同年に東宮(敦良親王)
妃・嬉子が出産直後に急死。さらに2年後、
三条天皇の中宮だった皇太后・妍子も崩御。
これらの道長の娘の続けての死は、顕光と
延子の怨霊の祟りと恐れられた。これより、
顕光は悪霊左府と呼ばれるようになった。
『光る君へ』では、顕光(演)宮川一朗太さん。