藤原伊尹(コレタダ)は右大臣・師輔の長男、母は
藤原経邦の娘・盛子。同母妹の中宮・安子が
生んだ冷泉天皇、円融天皇の即位に伴って
栄達した。第63代冷泉天皇が即位すると、
伊尹は天皇の外伯父となる。伊尹は大臣未
経験であったため、伯父・実頼が故・師輔に
かわるかたちで関白太政大臣に就任したが、
伊尹ら兄弟が政治を主導した。まもなく、
伊尹は権大納言に任じられ、正三位に昇る。
伊尹は冷泉天皇に娘・懐子(チカコ)を女御として
入内させ、師貞(モロサダ)親王(後の花山天皇)
が生まれた。

冷泉天皇には狂気の病があることから、急ぎ
東宮に同母弟の為平親王か守平親王が立て
られることになったが、選ばれたのは年少の
守平親王だった。これは為平親王妃が左大臣
源高明の娘で、将来源氏が外戚となることを
藤原氏が恐れたためだった。翌年には源満仲
の誣告(ブコク)により高明は謀反の咎で失脚し、
大宰府へ左遷されてしまった。(安和の変)
この陰謀の首謀者は明らかでないが、伊尹が
仕組んだという説もある。同年に冷泉天皇は
守平親王に譲位(第64代円融天皇)。東宮には
伊尹の外孫である師貞親王が立てられた。

翌年、右大臣就任、実頼薨去により藤氏長者
となり摂政に任じられた。さらには太政大臣
に任じられ正二位に進む。ところが、程なく
病に倒れ、死期を悟った伊尹は上表して摂政
を辞し、またたく間に薨去(享年49)。

没後12年経って、円融天皇が譲位し、伊尹の
外孫である師貞親王が即位(第65代花山天皇)。
外伯父となった伊尹の子の義懐(ヨシチカ)が朝政
を執るが、花山天皇は兼家の策謀によって
ほどなく出家して譲位し、第66代一条天皇の
外祖父・兼家が摂政となった。(寛和の変)
兼家子孫が摂関家の嫡流として繁栄する一方、
絶望した義懐は出家遁世、これ以後は伊尹の
系統は奮わなかった。なお、義懐の早世した
同母兄・義孝(ヨシタカ)の子に、三蹟や四納言の
一人として知られる藤原行成(ユキナリ)がいる。
行成は当代の能書家で、世尊寺流の祖である。
『光る君へ』では、義懐(演)高橋光臣さん、
行成(演)渡辺大知さん。

為光(タメミツ)は師輔九男、母は醍醐天皇の皇女
雅子内親王。為光は叔父(母雅子の弟)であり
義兄弟(姉の夫)でもあった左大臣・源高明が
失脚する安和の変が発生し、高明の女婿為平
親王の家司を務めていた為光は連座して昇殿
を止められる。異母兄の伊尹・兼通から可愛
がられており、先任参議6名を飛び越して、
権中納言に抜擢され、従三位に叙せられる。
その後も順調に昇進、花山天皇が即位すると、
天皇の要望を受け娘・忯子(ヨシコ)を入内させる。
忯子は天皇の寵愛を受け、天皇の外戚で為光
の義弟・婿でもある権中納言・藤原義懐と並び
重きをなした。

だが、忯子が急死すると、傷心の花山天皇は
出家してしまい(寛和の変)、続く一条天皇の
即位とその外祖父・兼家の摂政就任によって、
為光の野心は挫折した。
兼家は左大臣・源雅信に対抗するため、為光
との連携を図ったため、為光は右大臣に就任、
従一位に叙せられた。これにより為光は兼家
・道隆親子の風下に立つことになり、まもなく
道隆の推挙で太政大臣に任じられるも、翌年
には薨去(享年51)。『光る君へ』では、為光
(演)阪田マサノブさん。

為光の次男・斉信(タダノブ)は道長腹心の一人
として一条天皇の治世を支えて、藤原公任・
藤原行成・源俊賢と共に、一条朝の四納言と
称されたが、中でも斉信は漢詩を好んだ道長
の開催した詩会の常連で、その道長に対する
忠勤ぶりを藤原実資から揶揄されている。
和歌や漢詩を始め、朗詠や管絃にも通じて、
当代随一の文化人としての名声も高かった。
清少納言との交流でも知られ、『枕草子』の
中にもたびたび登場、その艶やかな振る舞い
を描写されている。

斉信は大臣への任官を強く望んでいたものの、
太政大臣・藤原公季が薨じた際、その後任は
立てられず、その後も高齢の右大臣・実資は
90歳近い長寿を保ち、左大臣・頼通、内大臣・
教通(共に道長の子息)との3人の大臣体制が
長く続いたため、ついに斉信の大臣任官は、
叶わなかった。病に苦しむことなく没したと
云う(享年69)。『光る君へ』では、斉信(演)
金田哲さん。

公季(キンスエ)は師輔十二男、母は醍醐天皇の
皇女康子内親王、朱雀・村上両天皇の同母姉。
生後まもなく母が亡くなったため、幼少時は
姉の中宮安子に引き取られ宮中で育てられる。
叔父の村上天皇からもとてもかわいがられ、
いつも天皇の近くに侍って、親王方と同様に
養育された。昇進も早く、20歳代半ばにして
公卿に列す。流行り病により関白・藤原道隆
を始め大納言以上の大官6名が没したため、
公季は大納言に昇進し、さらに長徳の変が
発生して内大臣・伊周が失脚したため、翌年
には後任として内大臣に就任した。20年の
長きに亘って内大臣の任にあり、道長政権を
支える。後一条朝初頭に右大臣に就任し、
皇太弟・敦良親王の東宮傅も兼ねる。左大臣
藤原顕光(兼通の子)の致仕に伴い、公季は
従一位太政大臣に至った。

公季は長男・実成(サネナリ)の子・公成(キンナリ)を
幼くして養子とし、溺愛した。公季は公の
行事にあたっても常に公成を同道し、また
皇太子敦良親王(後の後朱雀天皇)に対して
痛切に公成の引き立てを懇願したという。
公成の最高位は従二位権中納言であったが、
娘茂子が大納言藤原能信(道長の子)の養女
として後三条天皇の妃となり、白河天皇を
産んだことを契機に多くの国母を輩出し、
後世において閑院流は大いに繁栄した。
『光る君へ』では、公季(演)米村拓彰さん。