桓武天皇の皇子・葛原(カズラワラ)親王は、桓武・
平城・嵯峨・淳和・仁明・文徳朝に亘って、諸官
を歴任し、特に33年間も式部卿の職にあり、
親王自身が政務に熟達し、朝廷で重んじられ
ていた。その子に、高棟王・善棟王・高見王が
いたが、その後、臣籍降下させて平朝臣姓を
称することを上奏して許されている。

葛原親王の長男・高棟王(タカムネオウ)は臣籍降下
して平高棟と名乗る。父と同じように淳和・
仁明・文徳・清和朝に亘って、諸官を歴任し、
文徳朝では参議となり太政官に列し、大納言
まで至った。その子惟範(コレノリ)、孫の時望
(トキモチ)・伊望(コレモチ)も太政官に列し栄達した。

その後、時望の孫親信(チカノブ)の子孫は代々
受領を務める中級貴族として存続する。
親信の孫範国(ノリクニ)の家系は、平安末期に
後白河法皇の寵愛を受けた建春門院平滋子が
高倉天皇を産んだことで、弟の平時忠や姉の
平時子(二位尼)、そして時子が嫁いだ平清盛
を始めとする平家一門の繁栄に繋がる。時忠
の弟や叔父の子孫から多くの堂上家を輩出し、
高棟流は堂上平氏と呼ばれる。

葛原親王の三男・高見王(タカミオウ)の子・高望王
(タカモチオウ)が賜姓を受けて平高望となったが、
高見王の名は同時代の史料に名前が見えず、
その系譜に疑問がある。高見王が実在せず、
平高望は葛原親王の子とする説もある。

高望は上総介に任じられ、子の国香・良兼・
良将を伴い任地に下向した。そして任期が
過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾、良将
は鎮守府将軍を勤めるなど、上総国ばかり
でなく常陸・下総国にも勢力を拡大、坂東に
武士団を形成し、武家平氏の基盤を固めた。
良将の子・平将門は大規模な反乱を起こし、
追討にあたった国香の子・平貞盛の子孫は、
関東各地に勢力を張った。貞盛の子・平維衡
よりはじまる一族が伊勢平氏で、平清盛が
出て平氏政権を樹立した。この武家政権は、
鎌倉幕府へ繋がり、その実権を握った執権・
北条氏は、貞盛の曾孫直方の末裔と称す。