内麻呂の長男真夏(マナツ)は平城天皇に近臣し、
同母弟冬嗣(フユツグ)は嵯峨天皇に近臣したが、
薬子の変を境に運命が変わる。真夏は事件に
連座して左遷され、冬嗣は急速に昇進した。
冬嗣が右大臣に昇ると、真夏は12年振りに
昇叙されて従三位となり公卿の座に復した。
藤原北家の嫡流は弟冬嗣の子孫に譲ったが、
真夏の子孫からは日野家を初めとして計12家
の堂上家が成立した。

冬嗣は妻藤原美都子を通じて、嵯峨天皇夫人
・橘嘉智子が遠縁にあたり、その立后への関与
により嵯峨朝での政権基盤を確立していく。
嵯峨天皇が第53代淳和天皇へ譲位する前後で、
冬嗣の次男良房(ヨシフサ)と嵯峨天皇の娘源潔姫
(ミナモトノキヨヒメ)との婚姻、冬嗣の娘順子(ノブコ)の
嵯峨天皇の皇子・正良親王(後に仁明天皇)への
入内が行われた。淳和朝では冬嗣は左大臣に
就任、これは北家・魚名が罷免されて43年ぶり
の任官であった。

良房は嵯峨天皇・皇女の降嫁で急激に昇進し、
妹順子が第54代仁明天皇中宮として道康親王
(後の文徳天皇)を生んだことで、仁明天皇の
皇太子・恒貞親王(淳和上皇・皇子)の廃太子を
伴う政変を画策し、道康親王を皇太子に立て、
有力氏族や藤原氏で競合する愛発(チカナリ)・吉野
(ヨシノ)をも失脚させた。世に言う、承和の変。
第55代文徳天皇が即位すると、良房は潔姫と
の娘明子(アキラケイコ)が直後に生んだ惟仁親王を
立太子させた。

文徳天皇の崩御で、良房外孫の惟仁親王が、
9歳で即位(第56代清和天皇)。太政官の首班
であった太政大臣・良房が病に伏したことで、
弟右大臣・良相(ヨシミ)が太政官政務を掌握し、
太皇太后・順子、太皇太后宮大夫を兼務する
大納言伴善男(トモノヨシオ)の三者で、政権中枢を
担った。そこに応天門の焼失事件が発生し、
清和天皇は回復した良房に摂政の詔を与え、
事件処置を託した。人臣最初の摂政である。
その後、事件の犯人として伴善男が失脚し、
良相は連座を逃れたものの政治的影響力を
失った。世に言う、応天門の変。

良房の絶頂期に付き従った弟良世(ヨシヨ)は、
順調に昇進を果たし、兄の死去後も、清和・
陽成・光孝・宇多朝にかけても昇進を続けて、
太政官の首班を占めた。その子恒佐(ツネスケ)
も父と同じように、醍醐~朱雀朝にかけて、
北家・嫡流を支えて右大臣まで至った。
冬嗣の長子長良(ナガヨシ)、早世したものの
子孫が繫栄した良門(ヨシカド)については、
次稿以降としたい。