「今」感じたことをノートに書いていると、
度々たどり着く想いがありました。
私は母を喜ばすことができなかった。
それは小さな私が抱えた想い。
私はこの想いを抱えたまま大人になりました。
そんな私の現実には、
母を喜ばせたくて一生懸命やったことや、
母を喜ばせられなかったという想いから起きる出来事が度々起きた。
表面上の行動や出来事ではそれが根っこにあると気づかないものがほとんどで、
ノートで潜っていくとたどり着くのがその想いでした。
子供にとって母親は絶対的な存在。
母がいなければ子供は生きることができない、
そんなことを子供は無意識に知っている。
だからそんな絶対的存在の母が自分の存在によって喜ばないことは致命的。
小さな私の目に映った母親は、
いつも無表情で、いつも不機嫌、いつも怒っている。
でした。
そして、「そんな母にしているのは私のせいだ」と思っていた私は、
一番身近で大切な存在である母親を
喜ばすことができなかった。
そんなダメな私。
私はこの想いをずっと抱えていました。
横浜は紅葉が見頃♡って、12月(笑)とても綺麗に色付いていました♡
度々たどり着く、「母を喜ばせたかった」という想い。
私はここにたどり着くといつも、
「あぁ、私は母が好きだったんだなぁ。」
そんな自分の母への愛に気づいて「ほっ」とし、
それは私にとって十分なほどの気づきでした。
でも同時に、
なんて喜びの感度が薄い母なんだ!!
と責めている自分もいた。
私がこんなに頑張っているのに、全然褒めてくれなかった!
もっと喜んだり褒めている他の母親だっているのに!!
母親が喜ばなかった。
という記憶は変わらないまま、
そうゆう人なんだ
という理解でとどまっていました。
でも最近、その想いにたどり着いた時、
ふと疑問が湧きました。
本当に私は母を喜ばせていなかったのか?
母は本当に私の存在を喜んでいなかったのか?
そんな問いを自分にした時、
今まで見えていなかったものが見え始めました。
母が私の存在を喜んでいなかったら、、、
そもそも母は私のそばにいなかっただろうし、抱き上げてくれなかっただろう。
ミルクやお着替え、お風呂、私の全てのお世話をすることはなかったはず。
私の写真を撮ることもなかっただろうし、
私がいつ歩いたとか、いつ喋ったことも気にしないはず。
私に毎日食事を用意することもなかっただろし、
毎朝起きたら「おはよう」と言ってくれるのは、
私が存在しているという喜びがあるから。
何より私の小さい頃の話をする母はどう見たって喜んでいる。
母はずっと私のそばにいた、
母はずっと私のことを考えていた、
それは、
母がずっと私の存在を喜んでいたからだ。
長い間、表面上の「喜び」ばかりしか見えていなかった私。
けど「喜び」ってそれだけじゃないと分かった今、
改めて私の中の母の記憶が書き換えられました。
母も私も、「愛」でした♡