カエサリアは初期キリスト教史に於いて重要な土地で、中でもカイサリアのバシレイオス(330頃-379)はカエサレアの主教を務め、全キリスト教会で聖人とされている。キリスト教神学の形成に重要な役割を果たしたギリシア教父であり、東方教会の典礼の整備も行なったことで、正教会では聖大ワシリイと呼ばれる人物。


現在のカイセリにキリスト教の痕跡が在るかどうかと、グーグルマップで検索すると、大方の予想通りトルコ共和国建国後キリスト教徒住民は移住して打ち捨てられた教会跡らしいものが市の東側にいくつか在る。

紀元4世紀の遺構は望むべくも無いが、やはりカイセリの周辺にはトルコ共和国建国以前はキリスト教徒住民が多くいたのは間違いない。2003年頃再訪したカッパドキアの奇岩地帯で、フレスコ画などの遺る洞窟教会の遺棄理由が、実はトルコ共和国建国後の住民交換に有ると気付いた。


しかも、あのミマールシナン(1489?-1588)の生家の在る村も元はキリスト教徒の村で、シナン自身がキリスト教徒の石工の家に生まれ、オスマン帝国の徴用制度でイェニチェリ(元キリスト教徒子弟で編成された軍団)の工兵になったと伝わる。


新しいアパート群が建つ地区の先に、谷状の地形が有って、崖の岩には住居として使用されたような景色に出合う。急な斜面を降りた底にも集落が有り、その先の崖の奥はまた新しい住宅地区になっている。

グーグルマップの教会(kilise)の表示を頼りに、谷底の村に迷い込んで、ちょうど作業をしていた住民に声を掛けたら、「ひとつはすぐそこだ、中をみたいのならこっちだ」と案内してくれる。
トタン板のような仕切り壁の隙間から教会の敷地に入れる。

グーグルマップではErmeni Kilisesiとあるからアルメニア教会だったか。現在の状態から宗派は不明だが、装飾が遺った部分も。

案内してくれた人物は、年齢は70歳ほど、この集落の住民で、彼に拠れば「キリスト教徒の住民が移住したのは1957年から1960年、レバノンに移った」との事。時期が第二次大戦後であるのも意外な情報、移住先がレバノンと言うがマロン派なのか、それとも別の理由(反ソヴィエト?)が有るのか? 建物の劣化の感じからして、1960年頃は確かそう。
彼は、この教会の屋根に登れると言って、建物の側壁と壊れた構造物の隙間を登って行く。足元に注意しないと10メートル以上の建物の隙間に落下する怖れがあるものの、屋根の上に出られた。彼は何度も屋根の上に登っているらしい。「この屋根は良く出来ている、雨水が漏らない造りになっていて、今でも頑丈だ」。
ここで村のほうから呼び掛ける声、彼の弟で、やはり今でも村に住んでいるそうな。

集落には今でも十数軒ほどの家屋と、背後の岩壁に貯蔵庫なのか住居跡か。
屋根から降りて、弟にも挨拶して別れる。兄弟の名前はハッサンとアリ、いかにものトルコ名。

村にもうひとつ在った教会跡

少し移動して、
背後に新しいアパート群が

これはやや大きめで、堂内後方の2階に婦人席と考えられる構造。

岩壁を利用した構造物も

この周りには人影が無く、陽も暮れてきたので引き上げる。

翌朝、ミマールシナンの生家が在るアウルナス村へ、

村の入り口付近に地下都市が在るが、管理人が居ない。グーグルマップには09:00から開いているとしているが、9時半でも閉まったまま。グーグルマップの写真を見ると、カッパドキア奇岩地帯にいくつか在る地下都市と同様の造り。

ここがミマールシナンの生家、現在の村の中で、家並みの間の細い道を辿った先。
2階建ての建物にシナンの家の表示が有るが、実はその横の半洞窟住居が生家らしい。

現在のアウルナス村に遺るアギオス・プロコピオス聖堂跡、1857年の銘板有り
内部

ここもあたりに人通りが無く、住民とは話せなかった。