チョルムを午前9時過ぎに出発。グーグルマップで確認するとチョルムを西に出て、アラジャホユックからチョルムに来たルートを戻り、その後D795を南下、ヨズガットの近くでD200(トルコ中央部を東西に走る幹線)に入って東進、すぐにD805への分岐が在ってD805でカイセリに。このルートで270キロ、4時間ほどの距離。


カイセリはローマ属州カッパドキアの州都、最近人気のカッパドキア奇岩地帯から東に1時間ほどの街だが、定番カッパドキアの観光客はほとんど訪れない。トルコ中部の現代都市。

事前のルート設定でも、アンカラから出て、ボアズカレ/ハットゥシャからチョルム(博物館)と北上し、後半は日本のアナトリア考古学研究所が発掘・研究しているカマンカレホユック、ビュクリュカレを通ってアンカラに戻るイメージで、ぐるっと周るのに、途中南下してカイセリはこの地域の現代都市でホテルも多く便利に違いないし、実はカイセリの名の由来はカエサリア(カエサルの街;ここはティベリウスが訪れて気に入ったと伝わる)で、また紀元後4世紀頃は初期キリスト教の重要な土地で、ギリシア教父のカエサリアのバシレオス(東方教会典礼の成立に非常に重要)とニッサ(現在のネヴィシェヒル)のグレゴリオス、ナジアンゾスのグレゴリオスと3人の教父を出しているので、寄るつもりだった。

しかし、アンカラのアナトリア文明博物館の展示で、ヒッタイト以前のアッシリア植民都市時代の諸都市を纏める中心がカニシュ(カネシュ)で、それが在ったのは現在のカイセリ郊外のキュルテペ、カニシュを奪取した王アニッタがヒッタイトを建てたと伝わる事を知った。

これは是非カイセリに寄る必要が有り、加えてあのオスマン帝国時代の建築家ミマールシナンの生家もカイセリの東郊の村だとわかった。

カイセリには充分以上に寄る意味が有る。


D785、ほとんど車を見ない

D805でも単調

12時前なので、ちょっと町が有ればチャイでもするかと思いながら、サルカヤ(Sarikaya;i点無し)という町の交差点に差し掛かると、『ローマ浴場』の表示。
何が有るのかと国道から町に入ってみた。

現在修復中で水が張られていないが、立派なローマ時代の飾り壁を背後に温泉プール。

左手の後代の地表面にオスマン帝国時代のハマム(営業中)。

ローマ浴場が見える道のチャイハネ、写っているのは温泉プールの由来を訊いたおっちゃん。
彼曰く、「建物はBC10年、ティベリウスがカエサリアで体調を崩し、ここの温泉が健康に良いということで・・・」
思わぬ発見。

カイセリはD260が北郊を通過する外周の他に、郊外から市中心部を東西にバイパス道路が貫いている。なので、市中心部へのアクセスは良いが、それによって市街が分断されているとも言える。


カイセリのホテルは中心部のIbisにした。中心部を通るバイパス道路沿いで、北側に鉄道線路と駅が在る。旧市街はバイパスの南側で、歩くには遠い。車で5分ほど、バイパスともう一本南側を東西に走るトラムが通る道路はそれぞれ南北に通る道路とは平面交差ではなく、道順と接続道路を間違うと行きたい方向になかなか辿り着かない、と言うか、迷う。市中心部のカイセリ城(新しいカイセリ考古学博物館が城内に)の東側のフナトハトゥンジャミ複合施設の辺りには駐車スペースが多いので車を駐められる。

ホテルにチェックイン後、まずカイセリの東に在るキュルテペを見に行ってみる。
東西に抜ける道路が外周と交わるインターチェンジで、やっぱり道を間違う。D260のシワス方向に向かったつもりがD300のマラティヤ方向に入っていた。30分ほど進んで引き返す。戻って行くと大きなインターチェンジが在るところで憲兵隊のチェックポイント。車の登録やIDカードのチェックをする(今回の移動中に何度かチェックポイントが有った)。ついでなので、キュルテペに行きたいのだと言うと、このインターチェンジを出たほうが早いような説明。ホントかなと思いながらも、ここから一般道に出ると、大きな工業団地の中へ。名前はミマールシナン工業団地、かなり広い、団地の地図は見当たらず、たぶんこっちが北方向だろうと進むと、団地の外れで田舎道に出た。あたりには民家も何も無く、半信半疑で田舎道を進んでみる。
30分ほど走っても、行き合う車も無く、一体どこに居るのか判らない。それでも道路脇にバス停のような標示物が見られるので、とにかく進むと少し広い道路に交わって集落が在った。小商店が有ったので、キュルテペに行きたくてD260に出られるか尋ねる。トルコ語しか話さない店主だが、入ってきた道を反対方向に走って、次の集落があるあたりで右に進む道を行けば良さそう。あとで地図を見ると、あのミマールシナンの生家が在るアウルナス村のすぐ手前まで行っていた。

迷い込んだ田舎道を走っていると、あのカッパドキアの奇岩地帯の地質と似ていて、洞窟住居跡にも見えるものが。


結局1時間ぐらい遠回りして、

キュルテペのビジターセンター、小綺麗だが人影なし、閉まっている。

説明板、ここにアッシリアからの交易ルートを通して、様々な物品は勿論、文化が齎され、最も重要なのは文字とその記録方法がアナトリアに初めて現れた事。23000点の楔形文字粘土版が出土し、商売の取引記録から、政治や社会の姿を明らかにする貴重で膨大な情報が遺されていた。

紀元前20世紀からヒッタイト王国が登場する17世紀までの間、アナトリア各地に存在したアッシリア商人の交易市場(Karum;市場)を纏める地位に在ったのが、今のキュルテペの丘に有ったカニシュ(カネシュ;英文表記Kanesh)王国。

このマウンドがキュルテペ、カニシュの王都

カニシュの丘の麓にアッシリア商人の植民市場カルムが再現されている。

最近建設されたようで、おそらく当時の工法で再現していると思われる。家屋の中は空だが、観光用に住居内部の再現や、観光施設が作られる気配。

丘に登ってカニシュの王都地区

この方向に標高3916メートル、万年雪を頂くエルジェス山が在るが、厚い雲で見えず(グーグルマップでその綺麗な姿が見られる)。結局、3日間姿を現さなかった。

帰りの機上から見えたエルジェス山(画面奥の雪山)、手前の湖はトゥズラ湖と見え、その間にカイセリの街が在る。

キュルテペのマウンドの発掘の最下層は銅石器時代後期。
マウンドの南側テラス部分にアッシリア交易植民市場時代の行政建築物が在ったとしている。

南側の石造建築遺構

南からマウンドの中央部を見る

ヒッタイトを興したと伝承されるアニッタ(クッサラ王ピタナの息子)が、カニシュ奪取後築いたとされる神殿跡。ハットゥシャ出土の楔形文字粘土版に記されたアニッタの物語は、自身を嵐の神に愛でられる者と呼び、カニシュの都に『天の嵐の神』と『我らの女神(地母神の意?)』の神殿を建てたと言っている。

アニッタの建てた神殿跡

この辺りの下の層はアッシリア交易植民市場時代以前の遺構が存在



カニシュ王ワルシャマの王宮、図の大きな方形の遺構。王の名はママ(現在のカフラマンマラシュに比定)の王からカニシュ王ワルシャマに宛てた粘土版が出土した事に依る。

ワルシャマ王宮跡、時代はアッシリア交易植民市場時代の後期。