ニシャンタシュの向かい、東の斜面にフリギア時代(BC7世紀末)の砦の遺構が在る。ヒッタイト帝国の崩壊とハットゥシャの遺棄から数百年後に、トラキアからアナトリアに来住したギリシア系のフリギア人(有名な都市はアンカラ近郊のゴルディオン、のちにアレクサンドロスがゴルディアスの結び目を剣で断ち切って解いた逸話の遺る処)がハットゥシャの遺構の上に造営した。

ここで注目は、フリギア人がヒッタイト時代の貯水池の堤を流用して砦を造った結果、ヒッタイトの水に対する祭儀空間が現在にまで遺ったこと。


フリギア時代の遺構の説明板

これがヒッタイトの貯水池の堤に遺された祭儀空間、右手の壁にルウィ文字の碑文が非常に良い状態で遺っている。この部分、鉄格子の扉が設けられている(写真は鉄格子の間から)。ヒッタイトの世界観で、水源や池は冥界へと繋がる意識が有ったとされている。若手研究者の山本孟君はYouTubeで、時代的にヒッタイト帝国時代のシュッピルリウマの関連を述べている。

この構造物の上に上がると、
これがヒッタイト時代の貯水池。
右手、二段目の石垣が途切れた先に少し草地が在ってその先、貯水池の次の角のあたりに石造物が見える。
実はこの洞窟状の構造はもうひとつ在って、そちらは崩壊がきつく、
ニシャンタシュの手前の道端になんか石造物が在るなと思ったもの。貯水池のこの部分はフリギア時代の砦の外。

もう少し降ったところ、東側に高くなった丘状の場所に王宮が在ったと推定される。トルコ語でブユックカレ(大きな城砦)と呼ばれる。
ニシャンタシュからこの丘の登り口の間は少し谷になっていて、両者を繋ぐ石積の橋が設けられていた様子。
この丘自体は青銅器時代初期から居住の痕跡が有り、紀元前13世紀に城砦化が成されたとされる。王とその家族に、高官の住まいや文書庫(楔形文字文書が多く出土)が在ったと見られている。

ニシャンタシュからの通路跡(平行する石積がニシャンタシュに向かっている)。

ここから登った上に、

奥に高くなる丘の上に宮殿の構造物遺構

一番奥、背後は東の谷

東の谷の向こう、真ん中ぐらいにヤズルカヤが在る

北を見ると、未だ発掘中の区画も有り、その先にボアズカレ村と病院が見えている。

貯水槽らしい遺構、奥は北西方向

ブユックカレから遺跡の入り口付近に降りてきた処が、ハットゥシャの下の町と大神殿。

神殿群のひとつか、特徴的な緑の石、現在は細長い草地の部分に大きな陶製の瓶が並んで埋まっている。穀物やオリーブオイル、ワインなどの貯蔵庫だったと考えられる。

大神殿説明板

大神殿中庭、奥の左に男神(嵐神)、右に女神(太陽神、説明板ではアリンナと呼んでいる)の祠堂が在ったとする。

女神の祠堂跡

大神殿の北側、一段低い位置の細長い構造物はやはり貯蔵庫。その先に一般住居地区と再現市壁。

再現市壁の説明板、櫓の形状は陶製の出土品から再現。