朝からアンカラ城に出直す。


内城の城塞都市への入口

内城に入って左手にあるスルタンアラエッディンジャミ、創建は1178年(或いは1197年)と伝えられ、アンカラ最古のモスク。アラエッディンの名は1200年代初めにモスクを修復したセルジューク朝のアラエッディンカイクバードに拠っている。
柱は明らかにビザンツの物を流用している。

モスク内部は平天井で四角い空間、説教壇はモスクより古いとも。
どうもビザンツの建築物を流用しているのか、ミフラーブがメッカの方向では無いように見える。

モスクの反対側、内城の門を入って右手の坂道を登ると、観光客が入れる砦。
砦の上からアラエッディンジャミを見る

南北方向に細長い内城(民家が建っている)の奥、一番高い位置に本丸のようなアクカレが在る。そこに入れるのかと思っていたが、政府の建物で、観光客は東南の砦だけ。

砦から右に繋がる城壁、四本のミナレットは新しいメリケハトゥンジャミ、その先にアンカラ駅

内城の住宅は全てリノベーション工事を進めている

内城の西側に在る出口、階段で外城壁の外まで降りられる

城を背に前方のハジバイラムジャミとの谷になる部分にローマ時代の劇場跡。階段席はコンクリートで作り直されている。

ハジバイラムジャミの横に遺るアウグストゥス神殿跡。
というか、この位置はローマ時代以前からフリギアのメン神を祀る神殿が在ったアンカラのアクロポリス的な場所で、ローマ帝政期に入ってアウグストゥスはローマの支配を象徴する意味でも、この場所に神殿を建てたと見える。で、現在ではアンカラで最も崇敬を集めるハジバイラムジャミが、アンカラのアクロポリスを引き継でいるとも。

現在でも壁面に遺る『アウグストゥス業績録』は貴重な史料。内面にラテン語、外面にギリシア語で刻まれている。

ハジバイラムジャミの西、アンカラ社会科学大学構内に立つユリアヌス記念柱。ユリアヌスはキリスト教を公認したコンスタンティヌスの甥で、キリスト教に対し古来のローマ信仰を復興しようとした為『背教者』の名を課せられる。
記念柱はユリアヌスのアンカラ来訪を記念して建てられたもの。元は現在より数十メートル南西の位置に在ったらしい。

アンカラ社会科学大学の西のバス通りを北に少し歩くと、ローマ浴場跡。

かなり大きい施設で、ここもあのカラカラ帝が造ったと言う。カラカラは東方遠征の途中、シャンルウルファからハーランに向かう道で親衛隊長に殺されている。
属州ガラティアの州都アンカラは東方遠征の軍団が通るルート上の重要拠点であった。
このローマ浴場は異様に床暖房(ハイポコースト)の規模が大きく見える。アンカラの冬季は非常に冷えるからとも。

この辺が焚き口だったか?
この遺跡の再現想像図が今ひとつ。