3月からカタール航空の関西空港便が再就航したので、オリエントから地中海方面でどこか行ける処はと考えてみた。


昨年2023年のカルタゴの続きで、フェニキアの故地レバノンのシドンあたりが在るが、なにせガザの戦闘状態がそう簡単に解決するものでは無い。

エジプトのアレクサンドリアも行きたい場所だが、やはりガザに近いし。


そんな時、YouTubeで紅い河のほとりがどうたらしてヒッタイトのムルシリ2世のことを解説している若手研究者の動画に眼がとまった。
2020年のイスタンブール考古学博物館でしっかりした展示に出逢い、2021年にトルコの南部を東のシャンルウルファから地中海沿いにボドルムまで走った際、『紀元前1200年のカタストロフ』というテーマが有ることを知った。
紀元前1200年頃に、ヒッタイト、エジプト、ミケーネなどの文明が崩壊し、暗黒期を迎える事になった。

紀元前1275年頃、ヒッタイト帝国はエジプトと、シリア地域の支配を巡って戦い、世界初とされる平和条約を結んでいる。

ヒッタイトの強さの秘密として、鉄の使用が語られているが、どうも全軍に鉄製武器を持たすほどの量は製造できなかったようである。ただ、当時のオリエント世界で鉄をほぼ独占的に生産していたとは言えそう。

この地域では紀元前1200年のカタストロフ以降、鉄生産の広がりが起きている。

また、この紀元前1200年のカタストロフに就いて、『海の民』の存在が語られているが、これを巡って、最近では気候変動に因る凶作の連続から、暴徒化した難民集団ではとの見方も出ている。


それで、紅い河の話は1995年から2002年まで連載された少女漫画『天は紅い河のほとり』という作品で、後に宝塚歌劇でも2018年に舞台化されているというもの。全く知らなかった。まあ、1995年は香港からバンコク、その後、シンガポール、バーミンガムと住んで居た時季だから、カラオケでもスッカリ抜け落ちている期間。

宝塚の話は、今回トルコ行きを決めた後で会食した宝塚ファンの友人から、「あの宙組の公演で、見に行った」と聞いた。


この『天は紅い河のほとり』は、YouTubeで見た若手研究者の山本孟君も、時代背景や登場人物の設定などに、非常に高い評価を与えている。

山本君のYouTubeは、ややもすればオタク的になりがちな研究を、如何に旨く多くの人に興味を持って知ってもらうかの良い試みだと思う。是非ご覧になる事をお薦めしたい。


前置きが長くなったが、

出国検査の後、延々と遠回りさせる関西空港の土産物屋街にイラッとしながら(免税店地区を充実させるのは世界の趨勢だが、その場合急ぎの乗客や買い物に興味の無い乗客にはショートカットを設けておくのが常識だろう、強制的に遠回りを強いるのは消費者委員会にクレームしたい行為)、

しかも、以前から在るゲートへのシャトル乗り場へは、免税店街を遠回りをさせられた先に、この情けない通路から再び出国検査階にエスカレーターで登って、更に殺風景な通路を数十メートル歩かせる動線。
関西空港管理会社は乗客を馬鹿にしているのか、それとも全くの無能なのか。


カタール航空803便はエアバス350-900で、18:30発。そこそこの搭乗率だが、3席並び確保。

ほぼ真西に飛んで、上海から武漢、ここから少し南に向けて貴州省の貴陽、雲南省の昆明、臨倉(さんずい編)、孟定と進む。ここはタイ族ワ族自治県。


サルウィン川に注ぐ南定河に沿って、ビルマ(ミャンマー)のコーカン地区に入り、センウィー(ティエンニー)、ナムトゥ、モンミット(モメイク)の上空を飛ぶ。
画像はモンミットとモゴックの間を飛ぶ機体、画面右にシポー(ティボー)、ラシオの地名が在る。

ここは2001年頃から数回訪れた場所。現在はちょっと現地の状況が不安定。2021年の国軍クーデタも有るが、それ以前からシャン州内の武装勢力間で揉め事が有って、タイ族のシャン州軍は南部と北部で路線の違いが有り、更にナムトゥやナムサンはパラウン族の土地でパラウン族の武装勢力はシャン州軍と小競り合いも起こしていて、これにビルマ国軍が絡む複雑な情勢が既に有った。

話が複雑なのは、各勢力の拠点が入り混じっていること。


それにしてもこの地域で、今も宿題だと思っている一番の事は、センウィーの意味について。宣慰司の音で、おそらく木邦(モックポーンか)宣慰司ではなかったかと推定している。2003年だったと記憶するが、センウィーで偶然行き当てた旧ソーボワ一族の青年(1962年のネウィンクーデタ時にセンウィー選出議員だった人物の息子のひとり。当時のセンウィー選出議員はセンウィーソーボワの弟で、ヨンホェソーボワに嫁いでビルマ大統領夫人になった姉妹の通称マハディヴィを破って当選していた)が、旧センウィー館(第二次大戦時連合国側の爆撃で損壊)跡を案内してくれて、その敷地内に在る建物の中に、「昔の中国皇帝からの文書が仕舞って有る」と言った。当時でも彼の立場は微妙で、敷地内の建物を管理しているのはビルマ国軍政府の人間で、鍵はその人物が持っていて、その人物が許可しなければ彼は何も出来ない仕組み。

結局、その日は管理者が不在でそのままになった。

何時の時代の文書かにも依るが、中国皇帝の発出した文書であれば、英領時代の北部シャン州センウィー藩の過去について重要な史料に相違ない。

この時は、ビルマ戦線で戦った元日本兵のHさんのお伴で旧ビルマロードをラシオからワンティン(碗町)まで辿った日で、その日はムセに泊、翌日は瑞麗から中国側に入って龍陵まで行き着いた。


画像にあるモゴックは有名なルビー鉱山で、Hさんのお伴のなかで、マンダレーからビルマ国軍手配の案内人とミニバンで1泊の旅程で訪れた。Hさんは龍陵で玉砕寸前になる前に、モゴックの先のモンミットに数ヶ月駐留していて、「モンミットのソーボワの夫人は白人で、実はモンミットのソーボワは英国に内通していたが、当時の日本軍は知らなかった」とのこと。ビルマ国軍の案内人はモゴックから先、モンミットには許可が出ないと言うことで、モゴックの外れで引き返した。

この時、モゴックのルビー鉱山を案内されたが、なかなか奥深いものがあった。


期せずしてドーハへの航路上に、様々な想い出が湧き出す機会があった。



イラワジ川を越え、チッタゴンに向かう。
この日は関西空港離陸からずっと気流が悪く、ベルト着用サインが灯ったまま来たが、シャン高原を過ぎてイラワジ川を越えたところで気流が安定した。


ドーハまで11時間半、結構長い。それで、着は現地午前零時過ぎ。長い夜になる。
ドーハのラウンジは充実

チョコレートムースは上出来

朝のドーハ空港、アンカラ便はA320で出発ゲートからバス移動。深夜の関西空港便A350-900もスポット留めでかなり遠かった。

アンカラのエセンボーア空港は小さな空港。現在のターミナルビルは新しい建築。調べてみたら、アンカラの空港は昔から変わっていない様子。
とすれば、ほとんど記憶が無いが3度目と言うことになる。最初は1976年の3月だから、48年前!チャウシェスク時代のブカレストからイスタンブール乗り継ぎで。
2度目は2003年だったか、関西からイスタンブール乗り継ぎ。
アンカラの入国審査は初めて、まったく列なし。あっけなく入国、到着ロビーは人影もまばら。
国内線到着に歩くと人が増える。
ここで、トルコの物価が爆上がりしている気配に気付く。
タクシーなら約26キロのアンカラ市街まで800から1000リラだって!それは4000円から5000円ではないか。2020年のイスタンブールでは、約38キロのガラタ塔まで2000円ほどだったはず。日本円の対ドルが60パーセントになったとしても、トルコリラはこの間で25パーセントほどになっているのに。つまりはトルコ内で物価が高騰している結果だろう。

空港バスで100リラ(約500円)。
旧市街
実はアンカラに全く記憶が無い。先の2回とも1泊だけで、翌朝からカッパドキアに向かった。

とりあえずATMで2000リラ(一万円ぐらい)引き出して(ほとんどカードタッチ決済になっているので現金は少しでよい)、

チャイ、15リラ(75円ほど)。これも倍ほどに感じる。

あれこれ前置きや、航路上の想い出が多かったが、やっとアンカラに着いた。