ティルチラパッリジャンクション駅に向かう途中に、ティルチラパッリ鉄道博物館という看板が気になった。
入場料は10ルピー、建物はイギリス植民地時代の建築
ドーンと展示されている蒸気機関車
これはスイス製、ニルギリ山岳鉄道で運用された機関車 X37395 号、メートルゲージ、1953年製造で2011年退役、なんと2005年にUNESCOが世界鉄道遺産の宣言と表示している。
なんで二重のピストンと動輪セットが有るのかと思ったら、これはラック式で、上の動輪の回転はギヤを介して車体下部中央の歯車を回す仕組み。
本館の中には、鉄道の備品や歴史が展示されている。
パネルにインド鉄道の歴史、最初の旅客列車運行は1853年(日本はまだ江戸時代)のボンベイ。
1856年には南インド初の旅客運行がマドラスで、Madras Railway Companyによって始まる。
どうやら現在はインド国鉄になるインドの鉄道の初期は、数社の鉄道会社が設立されその後統合されていく歴史。
今の南管区のHQはチェンナイ中央駅の隣に建っているイギリス植民地時代の鉄道オフィス(先週チェンナイのイギリス植民地時代の地区を走った時に見た)。南管区は、主に3つの鉄道会社が統合されたようで、チェンナイに続いて1859年にあの海辺のナーガパッティナムにひとつ会社(G.S.I.R)が創立されている。1862年にタンジャヴールからティルチラパッリまで繋がった。
1864年にCarnatic Railway Companyがティルチラパッリに創立。
1874年(明治7年)にナーガパッティナムとティルチラパッリの2社が統合されて、South Indian Railway Company (S.I.R)になりHQは1880年にティルチラパッリに移動。ナーガパッティナムは鉄道の初期に重要だったと見える(ゲージはメートルゲージ)。
1890年にはS.I.Rは、イングランドで株式会社登録。なんと、インドの電化は早くて、1925年にボンベイ、1931年にマドラスで電車(近郊線)を運行している。
インド独立後の1951年に全ての鉄道は国有化されて、Indian Railway (IR)になり、鉄道省監督下に置かれるようになった。
南インドでのディーゼル機関車導入は1963年になってから。
1987年に予約サービスのコンピュータ化を導入したと謳っている。
2005年にニルギリ山岳鉄道が世界遺産。
2009年に150周年のSouth Indian Railway ロゴ。どうもティルチラパッリは鉄道事業に誇りがある様子(今の南管区のHQはチェンナイだけど)。
ここで、入り口の番人に現在の幹線のゲージを尋ねたら、あまり英語の得意ではない番人が、庭の噴水の手入れを監督しているクマルに訊いてくれと。
それで、クマルが言ったのがあの「1565mm」、5フィート6インチと混乱してる。正しいのは、『1676mm』!
帰りがけ番人に訊いたお薦めレストラン(AC有り)でミール。場所はティルチラパッリジャンクション駅に入るラウンドアバウトの近く。
このパパダンとグレービーを動かして
ライスを真ん中に盛るのが作法
午後早めに空港まで行って、レストランがあるだろうと思ったのが大誤算。空港の中には、搭乗口の手前にバカ高いコーヒーショップ、(空港のビルの外に在るコーヒーショップは10ルピーから20ルピーの市内相場なのに、搭乗口の店はコーヒー200!、普通のコーヒーでスタバ並みの値段、やめた)。
空港建物の入り口でチェックしているインド軍にレストランは無いのか訊いたら、「この周りにいいレストランは無いな、街に戻ったほうがいいよ、近いから」。
結局4時間以上待って、
IndiGoのATR
この便、記憶に遺ったのは、キャビンアテンダントの娘。顔つきは、あのポンディシェリで中国人かと訊いたヴェトナム系フランス人に次いで、中国人みたいな顔付き。
思わず中国人かと尋ねると、「違う、インド」、それでも顔付きがと重ねて言うと、「北の方のマニプール」。ひょっとして、エスニシティを訊いてもいいかと尋ねたら、「Naga」!
そうビルマ(ミャンマー)国境地帯、第二次大戦で日本軍が目指したインパールのあるところ、当時英軍が組織したナガ族の強力なゲリラ部隊が有った。
初めてナガ族に出逢った。しかし、この2週間、一人も中国人を見なかったことになる。これは今どき稀有なこと、京都に戻ったら中国人だらけ。
もうひとつ、この2週間南インドを旅していると、東アジア人(ナガ族はチベット系のはず、ビルマ内の少数民族にも有りそうな顔立ち)は色白に見える。