モザイクはちょっとおいて、ポエニのセクション。
上段の地図はカルタゴ以前、フェニキアはレバノンに居て、地中海の南側のアフリカ大陸北岸からイベリア半島に勢力を広げ、それに対し、地中海の北側とアフリカ大陸の一部がギリシアの勢力圏だった。
下段の地図で、黄色で示された部分がカルタゴの支配地域。

チュニジアに来てこの地図を見ると、何故フェニキア人にとってカルタゴの位置が重要だったかが良くわかる。まさにチュニジアとシチリアの海域を押さえれば、地中海の東西を行き交う海上交易が支配できる。チュニジアとシチリアの間の海域以外で東西に抜けられるのは、あのサイレーンが棲むメッシーナ海峡のみ。

カルタゴの強みはシチリアとを結ぶ線で東西に分けられる地中海の西半分を、ほぼ独占的に支配できたことだったと見える。
ポエニ戦争が始まる紀元前3世紀以前には、カルタゴはシチリアのトラーパニ近郊のモツィアなどに拠点が在り、シチリア島西部を抑えていた。
ローマとの武力衝突はシチリアをめぐって始まる。

これは第二次ポエニ戦争に関する地図。今でもチュニジアでは、ハンニバルは英雄。

カルタゴより古い起源のフェニキア人遺構が幾つか発掘されている。規模は小さい。図版の写真はボン岬のケルクアンというポエニ戦争期に放棄されたか衰退したフェニキア系の小集落について(後日訪問)。

タニトのシンボルにフェニキア文字

バールアモン神

豊穣神
陶器

カルタゴ船の想像復元モデル

博物館中庭の奥にカフェ
ここは19世紀の宮殿だった部分

バルド国立博物館でもうひとつ重要なのは初期キリスト教のセクション。

モザイクの墓碑
ローマ帝国は紀元4世紀に入ると衰退(経済の鈍化)して行くが、モザイクの良質な技巧は初期キリスト教時代に連続している。

豪華なモザイクが施された洗礼盤。受洗者は、水がはられたこの洗礼盤を歩いて通り抜けたらしい。

ここまで見て、ローマ帝政期以降文字はローマアルファベットのラテン語ばかりで、ギリシア文字が無い。
ユスティニアヌスの時代にヴァンダル族を破ってビザンツ領になったが、その時期のビザンツ兵士の墓碑もラテン語。

この地域の初期キリスト教にとって、最重要人物と言えば聖アウグスチヌス。彼はローマ帝政末期のカルタゴで教育を受け、知識人としてのキャリアを積んで、帝政末期の皇帝所在都市ミラノに向かった。そこでミラノ司教アンブロシウスの説教を聴いて、それまで懐疑的だったキリスト教に回心。属州アフリカに戻ったあと、ヒッポの司教となって初期教会のキリスト教思想を形成する重要な著作を遺した。
ヒッポは現在のアルジェリア領内のアンナバで、チュニスから車で3時間ほどの距離だが、アルジェリア入国には面倒なVISA取得が必要で今回は行けず。

トルコ・キプロス・ギリシアでは、ローマ帝政期からビザンツまで、碑文等に用いられたのはギリシアアルファベットの古典ギリシア語文ばかりでローマアルファベットは里程標に見かけたぐらい。
一方で、イタリアから西、旧カルタゴ支配の西地中海はローマアルファベットのラテン語文の世界。
カルタゴの古い時期に、リビア文字とフェニキア文字の碑文が有ったが、カルタゴ滅亡後全てローマアルファベットのラテン語世界になったように見える。