旧市内のマイナー博物館は先週行った、国立博物館は1年前にチェックした。

さて、それでは、ラーンナー時代に北タイからシャン州東部、雲南のシプソンパンナー(西双版納)、ラオス北西部に伝播したチェンマイからの上座部仏教の中心に在った僧院を巡ってみる事に。


ワット・スワンドーク、現在も大きな敷地を占め、後期ラーンナー時代に王家の支持も受けている。
しかし重要なのは、14世紀にクーナー(在位1355-1385)がスコータイからスマナティーラ僧正と弟子の僧侶を招請し、より正統のスリランカの戒律で仏教改革を行なった事。
おそらくハリプンチャイ以来の仏教を、誤った形とし、最新のスリランカ式で浄化する狙いだったと考えられる。
例えば、これまでの授戒の方法が誤っているとし、正しい作法で授戒をやり直させている。
この新しいスリランカ流の僧団の僧院として、チェンマイ城市の西の花園に建てたのがスワンドーク(北タイの音はソンドーク)僧院。
このスタイルがラーンナーの支配域から周辺に拡がって行く。この時の文字はスコータイに近いファーグム文字だった可能性が高い(後の北タイのタム文字ではなく)。
スワンドーク派はその伝播地域で教学に熱心だったようで、シャン州では近代の学校教育制度が導入される以前の住民教育はソンドーク派の僧院で行われていたと見られる。

これは敷地の南に在る堂の本尊プラチャオ・カオトゥ

今のスワンドークのヴィハーンは20世紀の巨大な建築で、こう言っては何だが大味な感じ。

手前の白い仏塔群は後期ラーンナー朝の王女でラーマ5世の側室ダーララーチャミ妃が後期ラーンナー王家の一族の墓として建立したもの。
この写真の構図は、チェンマイ空港の離陸が北向きの場合、金色の仏塔の横を飛行機が上昇して行く。何機か飛んで行くので、さあ撮ろうかと10分待ったが来なかった。

で、スワンドーク僧院の前のスーテップ通りを西に向かって、山裾にあるのがワット・パーデーン。

現在のパーデーン僧院のヴィハーン、後方の仏塔(北タイではタット)はムアンケオ(在位1495-1525)が修復したらしい。ワット・ハリプンチャイでもそうだったが、ムアンケオは仏教施設を、あちこち手を入れたり建立したりしている。

ここは15世紀のティーロカラート(在位1441-1487)の時代、さらなる仏教改革として森住派(新ランカーウォン)の僧団を推した拠点。
20年ほど前に訪れたときはかなり荒廃していたが、今回見に行くと綺麗になっていた。

しかし、ここで重要なボソット(北タイでは布薩堂はボソット)が境内に見当たらない。昔の記憶で確かティーロカラート時代のボソットが残っていたはずだがと、人影の無い敷地内で犬に吠えられながら、やっと建物の奥に僧を見つけ訊いた。

ボソットは現在の僧院に登るナーガの階段の外で、通りの民家の間。なんとなく昔の記憶と継る形。
ワット・パーデーンのボソット

で、今やこの周りにまで、こざっぱりした新しいアパートとか、気の利いたカフェレストランのようなものが迫って来ている。
スワンドーク門からこの山裾まで、スーテップ通りの北側はずっとチェンマイ大学の敷地で、病院から諸学部に各種施設が連続している。通りの南側のこの辺りは拡大するCMU(チェンマイ大学)の学生や関係者が住む居住区になっている。

パーデーン派は、パーリ語の理解には優れていたようで、ソンドーク派との論戦で勝った逸話が年代記などに伝えられている。
推測ではあるが、北タイのタム文字(経典文字、モン文字の系統)が使われるのはこの時期からではないかと思える。
パーリ語の理解の深化に、ソンドーク派も従い、ティーロカラートは仏典結集を行なっている。

そのティーロカラートの仏典結集が行なわれたのがこのワット・チェットヨット。

ブッダガヤのマハーボーディ僧院を模したと言う。
背面
正面

本尊仏

結界の張られたボソット、
ボソットの後ろのタット、現在は小さな仏像が置かれているが、この空間に納まる像が置かれたはず。

その裏に大きなタットはティーロカラートの遺灰を納めたと伝わる。