打ち捨てられていたナライ王の宮殿跡地を整備して、新たに宮殿を建てたのがラーマ4世モンクット王。
この敷地プラナライラーチャニウェートは、現在ロッブリーの国立博物館となっている。
手前が外宮に在る貯水槽、その南側に12の倉庫群(交易品や高級商材)、更に外交使節接受用の館、南の壁に近い位置に仏陀礼拝堂(ナライの晩年、ここで貴族高官による権力奪取謀議が行なわれたと言う)が在る。
貯水槽は西欧の技術を取り入れた宮殿施設全体への給水システムで、山地から郊外の貯水池まで水路を掘り、そこからは陶製のパイプでこの貯水槽に引き込んでいる。
12の倉庫群
外交使節接受用の館(画面左)は三方を噴水のある池で囲っている。奥に見えているのは内宮殿との仕切り壁。
正面の建物、チャンタラピサン玉座はナライ王の建物をモンクット王が修復したもので、基本的にナライ王の時代の展示。
ナライ王とフランス使節の謁見を描いた絵画の複製、その隣に1685年にフランスを出発して、1686年に帰着したフランス使節団の航路と日付が示された図。約半年かけて、ブレスト港から大西洋を南下して喜望峰回り、インド洋は北東に進んでスンダ海峡からバタヴィア(ジャカルタ)、ここまでは航路と日付が示されているが、バタヴィアからアユタヤへの航路と細かい日付が無い(約ひと月かけている)。1685年12月にアユタヤを出て、逆航路で戻っている。
スンダ海峡ルートはオランダ東インド会社の航路で、オランダがスンダ海峡を閉ざせば、ベンガル湾側のミエイク(ビルマとアユタヤの間で奪い合っている)が重要な港になるはず。