キプロスの第一の興味は、東地中海の東北隅にあってアナトリア、メソポタミア上流域、レヴァント、エジプトとの関係がずっと強かったはずという点。この感覚の裏には、汎ギリシア史観と言うか(去年2022年3月に訪れたアテネ考古学博物館に見られたミケーネ重視と、そこから東地中海を見る姿勢)、19世紀から20世紀にかけてのトルコとの因縁からアナトリアをスルーし、アッティカ中心主義的に現在のギリシア共和国の領域(去年訪れているドデカネス諸島なんかギリシア共和国に入ったのは1947年)を説明するバイアスの胡散臭さを感じていた。
だから、今回、パフォスからミケーネ以前のもの、ミノアのあったクレタ島に向かうことに。
キプロス島には、ラルナカ4泊、ニコシア5泊、パフォス4泊滞在した。記憶に残ったのはラルナカ考古学博物館が最新のアプローチを採り入れて居る様子、ニコシアの考古学博物館は重要品も所蔵しているが20世紀後半の調査や研究にやや遅れをとったような感じ。
紀元前10000年から5000年の古い層には、メソポタミア上流域やアナトリア、レヴァントなど、東からの文化の到来が見えるのは当然。一年半前2021年8月に見たユーフラテス上流域のギョベクリ・テペやその周辺地域との近さ(円型住居、住居の下に埋葬、やや大きな円型で周縁ベンチのある祭祀を目的としたと類推される建築物)を示している。
キプロス島固有の出来事として、青銅器時代に入って(凡そ紀元前2500年以降)、地質学的に豊富な銅鉱床の存在が地中海世界随一の銅産地になった。結果、その地理的位置に加えて、独自の重要交易品を持つことから、エジプト、レヴァント、アナトリア、エーゲ海の各地との交易が盛んに行われ諸地域の産品や文化、そして人も往来し流入したと考えられる。
で、今回訪れた街の中では、ラルナカの古層にあるキティオンがもっともフェニキア要素を強く残していて、東岸のサラミス、南西のパフォスはヘレニズム期プトレマイオス朝のもとで重要都市となり島全体のギリシア化が進んだかと見える。
BC58年以降ローマ属州の地位にあり、原始キリスト教から初期教会遺跡もある。
今回の旅で、ビザンツ関連がほとんど無かった(言えばスタブロブニの修道院だが、ここは寧ろ現在も続くキプロス紛争の影が強かった)。歴史では第3回十字軍の折り、ビザンツ内の内紛でキプロス島に割拠していた勢力が、通りかかったイングランドのリチャード1世獅子心王の手の者に攻撃したところ、リチャードの軍勢に赤子の手をひねるように打ち負かされ、その後、島を十字軍が統治することになった。
12世紀末から最後にヴェネツィアに売却する1493年までフランスのルシニャン家の系統がキプロス王であった。実に300年近くフランス系で、オスマン帝国時代にモスクに改装されたがニコシアやファマグスタのゴシック様式大聖堂やその他当時の西欧建築物をよく残している。
期せずして、僅か1493年から1571年の統治期間で、ヴェネツィアが要塞化した都市2つ、ニコシア旧市街とファマグスタの強固さに驚かされた。闘いは無かったがそれだけに、キレニア(ギルネ)城塞の姿はルシニャン家の城をいかにヴェネツィアが強固な城塞に造り変えたかがよくわかる。
結局オスマン帝国との闘いはファマグスタの攻城戦が焦点で、訪れたファマグスタ南西角の陸側城門を巡って双方が激戦し、13ヶ月の攻防後陥落した。
オスマン帝国時代に、フランシスコ会は戻っているし、ヴェネツィアも出入りしていたようで。
寧ろ、近世に大事なのは1878年に英国が統治権を得たこと。英国得意の外交と言うか、1960年のキプロス共和国独立後、ギリシア系とトルコ系の対立を深め、1974年のギリシア系軍事クーデターにトルコ軍の北部進駐という結果になった。(こう言っては何だが、旧英領で民族問題を残したところは未だに揉めている、旧英領印度ではインド・パキスタンの対立もあるが、アフガニスタンの混乱もビルマの混沌も)
それで最後にパフォス空港から、エーゲ航空でアテネ乗り換えイラクリオンに向かう。現在のパフォスは英国のホリデータウンである。スペインの海岸に幾つか、フィッシュチップスにパブにエールに、英国の町かと思うホリデータウンが在ったが、そう言えば英国海外領土の基地などジブラルタルと似たようなものか。
住民について、パフォス地区はほとんどギリシア系、ラルナカは顔付きでユダヤ系も有るしマロン派のレバノンも、礼拝時間に開くモスクにはアジアや中東にアフリカのムスリムも、ニコシアのキプロス共和国側はもっとエスニック各種で旧英国コモンウェルスのほとんどに、アジアではヴェトナム、フィリピンも居て、加えて最近のアフリカ系難民も。
北側はその意味で、モスクしか無いしドルムシュ(ミニバス)が便利で、トルココーヒーと言ってトルコリラで値段がついてるし、しかしレフコシャ(ニコシア)郊外やガジマウサ(ファマグスタ)の郊外に新設している大学にはアフリカからの学生を集めている。
ひょっとして紀元前10000年頃から、時代によって、いろんなところから様々な系譜の人々がやって来て、島のあちこちでそれぞれに集落を形成していたのではなかろうか。
ヒッタイトやエジプトやペルシアや、古い時代の帝国の支配下でも在地の勢力は反抗しないで安堵されていたようで、文化的に一元化に向かうのはプトレマイオス朝から。
個人の見解ですが、この島は国民国家モデルでは無い、例えばEU特別区とか、『大枠の中で他に迷惑をかけない限り各コミュニティがそれぞれ独自にやっていく』形は考えられないか?未来的問題かもしれない。
ここで微妙な3時間弱の待ち時間、一度空港の地下鉄駅まで行って、インフォメーションで相談。シンタグマまで40分、だがこの時間帯は30分に一本、往復乗車時間が80分で、シンタグマの近くでカフェして30分、電車の待ち時間を30分で140分ほど、可能だがバタバタしてるし、ちょっと危ない。窓口でアテネ地図を貰って次回に。
第二次世界大戦中の1940年10月に英国軍が進駐、1941年になってドイツ軍にアテネを追われた当時のギリシア国王と首相が4月にクレタ島に遷都するも5月にドイツ軍がクレタ島侵攻開始、激戦があって6月に英連邦軍が撤退。1944年10月にはクレタ人武装組織(英軍秘密作戦部が支援)はイラクリオンからドイツ軍を放逐。1945年5月のドイツ降伏後、ギリシア本土では共産主義者と王党派の内戦状態になったがクレタはどちらにも組みせず距離を置いている。
正教会について、ギリシア本土はアテネ大主教座(総主教では無い)のギリシア正教会であるが、クレタの正教会はコンスタンティヌーポリ総主教庁管轄である。
ギリシアにもいろいろあって、クレタはまた独特ということ。