アンタキア市街図

 

シリア正教会、COVID-19を理由に一般人は入れてくれなかった。

 

ローマ時代のアンティオキアはローマ帝国内で3番目の大きさであり、原始教会史では最初に「キリスト者 Chiristian」という呼び名が生じた街で、初期教会の5大総主教座(エルサレム・アレクサンドリア・アンティオキア・コンスタンティノープル・ローマ)のひとつであったから、その系譜を確認してみた。なんと、アンティオキア主教座は現在のシリアのダマスカスにアンティオキアを名乗る教会組織が3つもあることがわかった。(この複雑さは2022年12月にクアラルンプールで見つけたシリア典礼インド正教会までつながっていた)

 

それにしても、ハタイ県自体トルコ共和国成立からトルコ側の強引なやり方(いったんハタイ共和国なるものをでっちあげ、その決議)でトルコ帰属を決めた1938年までフランス領シリアであって、未だにシリアは公式には主権を放棄していないという複雑な事情も輪をかけて、このシリア正教会の一般人に対する閉鎖的な対応は混沌の闇の中にも感じた。

 

聖ペトロ教会

アンティオキアの東側の山の中腹、ローマ時代の墓地であった洞窟。このファサードは十字軍時代に造られたもの。

 

原始教会史で、ペトロがアンティオキアの人々と洞窟で集会を開いてキリストの教えを述べ伝えていたとされる。正教会ではペトロを初代アンティオキア総主教としている。紀元後40年頃のことだが、使徒言行録では割礼をめぐって守旧的なユダヤ人に気を遣うような姿勢を取ったことをパウロに非難されている。広くローマ帝国領内のユダヤ人や更には非ユダヤ人にまでキリストの教えを伝えようとする行動はパウロのもので、パウロはアンティオキアから伝道の旅を始めている。

 

洞窟の中

 

聖ペトロからアンティオキア方向の景色

 

聖ペトロからさらに北東に進んだところにハタイ考古学博物館がある。

 

Hatay Archeology Museum - Google マップ

 

ヒッタイト王シュッピルリウマ1世(BC1300年代)像、ツタンカーメンの父アメンホテプ4世(アクエンアテン)と同時代の人

裏面にヒッタイトの文字

 

モザイクもかなり在るがゼウグマを見たあとでは、たいしたものではない。

 

ちょっと面白いのはハルビエ(古代のダフネ、ローマ時代に別荘などが建てられていた)出土のメナンドロス(ギリシアの喜劇作家)の作品を主題にしたモザイク。題名だけで内容は失われた作品もあるらしい。

 

 

石碑ユピテルチェラウニウスに捧げるとラテン語で刻まれている、皇帝の名は削られている

 

ローマ時代の石棺

 

市中心部に戻って

バザールの東側

ハビビ・ネジャールモスク

イスラムの伝承ではハビビ・ネジャールという人物はAD40年頃アンティオキアに住んでいた大工で、原始キリスト教会の支持者であったらしい。