8 月 29 日

 

 ウィキペディアで「パルガル・イブラヒム・パシャ」(1493年生-1536年没)を見つけた。スレイマン大帝(在位1520-1566)の皇子時代から小姓として仕え、確かに有能な人物であったようで大宰相(在位1523-1536)にまで出世したが、1536年にスレイマンの不興を買い、死を賜った。スレイマンの寵姫ヒュッレムを扱ったテレビ ドラマでは、中盤で死を賜るまで最大の敵対者として重要な役割を占めている。

 パルガルのパルガは地域名で、ギリシア北西部のアドリア海沿岸。当時ヴェネツィア領の漁村でギリシア正教徒の漁師の子として生まれ、少年時代に海賊に攫われて奴隷としてマニサのトルコ人有力者に売られた。マニサでマニサ軍事長官であった同年代の皇子スレイマンの知遇を得る。スレイマンの友人としてオスマン宮廷教育を受け、側近としてスレイマンの初期の統治を支えている。軍事面外交面で能力を発揮し、実力でスレイマンの片腕かそれ以上の権勢を得た。当然イスラム教徒に改宗しているが、キリスト教世界と文化には精通している。本人の慢心もあったかも知れないが、優秀であっただけに敵対者も多かった故の賜死かと見える。

 ドラマではたびたびイブラヒムパシャの屋敷が舞台になり、スレイマンも訪れるし外国使節との面会も行われる立派な建物である。この建物が何処にあったのか、スルタンアフメット地区で付き纏う日本語土産物屋客引きに尋ねるが答えは得られなかった。

 ウィキで直ぐに屋敷が判った。オスマン朝最盛期の幕開け、スレイマン時代初期の右腕であった大宰相の屋敷である。宮殿の近辺にあるはずだと予想していたが、イブラヒムパシャの屋敷とは、もう何度か前を通っている競馬場跡の広場に面した現在のトルコ・イスラム美術博物館である。

 朝、タクシム広場に出るとちょうど古いトラムが来たので、これでテュネル、トラムと乗り継いでスルタンアフメット地区の競馬場跡へ。

 

右ホテルBurak

1864年創業の菓子店、その隣Burakのレストラン

イスティクラル通り

テュネルで

 

 競馬場跡、テオドシウスのオベリスクの前がイブラヒムパシャ邸。オベリスクをチェック。

 

テオドシウスのオベリスク、右端に見えている露台の建物がイブラヒムパシャ邸

土台中央はテオドシウス1世

 

  テオドシウスのオベリスクの土台を眺めていると、さっそく日本語土産物屋客引き登場。何か面白いかと訊く から、「土台部分はテオドシウス帝時代のレリーフで、文字はラテン語とギリシア語で刻んである」と答えると、「読めるのか?」と少し驚いた様子。「全部が判るわけではないが、使われている文字が何で、いくつか決まり文句とか皇帝の名前とか・・・」。研究してる人かと訊くから、「いや、趣味で」。これからどこへ行くと訊くから、目の前のトルコ・イスラム美術博物館を指して「イブラヒムパシャの屋敷」。「ああ、あの中には絨毯のいいやつがいっぱい展示してあって、作り方とかも見せているから・・・」と絨毯屋トークになりかけるのを、「いや、建物の興味で行くので」と振り切る。

 

 博物館に入ると、まず思いがけない展示コーナーが在る。この屋敷の基盤はコンスタンティノープル競馬場の西側観覧席なのだ。観覧席の構造の一部が現れていて、通路や排水設備なども。オベリスクは競馬場のトラックの真ん中にある島状のスピナの上に立っているもので、それからトラックを挟んだ西側の観覧席の位置が博物館の建っているところ。

 

樹木の後ろが博物館、オベリスクの影が落ちている

一階に露出した競馬場観覧席の構造部分

競馬場地表面から一層上になる中庭

中庭

暖炉のある部屋

二階廊下

絨毯の展示

絨毯の展示(イスラム法学者の部屋)

中庭

競馬場の反対側はスルタンアフメット

広場の北にアヤソフィア

 

 このイブラヒムパシャ邸は1524年頃の建築で、当時スルタンアフメットジャーミィ(1616年完成)は無く、競馬場跡は広場で北側に大モスクになったアヤソフィアとその後ろにトプカプ宮殿。宮廷から歩いて20分ほど、馬車で5分と言う ところ。

 

  この博物館の展示で面白かったのは、ウマイヤ朝(661年-750年)から始まる歴代イスラム王朝の美術品を展示している事で、特にイラン・イラク・アラビア半島・エジプト・小アジアのイスラム政権の流れが整理されている事。美術品に加えて預言者ムハンマド遺物や初期イスラム文献も所蔵している。さすがにイスラム世界の大帝国として、カリフ称号も持ったオスマン帝国の威光を知らされる。

 スルタンスレイマン初期宮廷の大宰相イブラヒムパシャ邸を辞して、スレイマンの晩年から3代のスルタンの大宰相を務めたソコルルメフメトパシャゆかりのモスクへ。

 ソコルルメフメトパシャ(1506年生-1579年没)はボスニアの正教徒の生まれで、10歳の時「強制徴用」制度でオスマンの軍学校に送られスレイマンの近衛兵にな る。1520年代の遠征では兵として参陣しているが、1546年バルバロスハイレッディンの後継として海軍司令、1555年第三宰相、1565年に大宰相に任じられた。翌1566年ハンガリー遠征中に陣没したスレイマンの死を伏せてハンガリーに勝利し、遺骸とともにイスタンブールに戻った。

 スレイマンの後を継いだのは凡庸ゆえに唯一生き残っていたスレイマンの皇子セリム、スルタンに即位したこのセリム2世は「酒飲み」と綽名され政治には関与せず、大宰相ソコルルメフメトパシャがすべてを仕切ることになった。1574年セリム2世はトプカプ宮殿内に新しくした浴場に酔っぱらって入って足を滑らし頭部を強打、11日後に没したと記録される。

 後を継いだのはセリムの皇子ムラトで、ムラト3世として即位、大宰相ソコルルメフメトパシャは国政を担い続ける。オスマン朝のスルタンが政治に関与せず、大宰相が国政を担う体制はセリム2世とソコルルメフメトパシャの代から始まったとされる。1578年ソコルルメフメトパシャは、スレイマン以来の宿敵サファヴィー朝ペルシアに侵攻、1579年ダルヴィーシュ(イスラム教スーフィー教団の修道者)を装ったサファヴィーのスパイの手にかかって暗殺される。

 このソコルルメフメトパシャが1571年、ビザンツのアヤアナスタシア聖堂があった場所に建てたのがソコルルメフメトパシャジャーミィ、ミンマールシナンの傑作のひとつとされる。地図で見ると、イブラヒムパシャ邸から西に行って、少し先を南に下ったあたり。

 

イブラヒムパシャ邸東南角

イブラヒムパシャ邸南面

 

 途中で昼食にする。通りの角の店で、ここらも観光客狙いと地元客が半々な感じだが、店主がお薦めと言った煮込みは美味かった。

煮込み

 

ソコルルメフメトパシャに入る横道

 

 坂道の途中に、樹木に包まれた入り口は正教会を思わせる。そこから入るとモスクの前庭の脇で、正面入り口は洗い場の西側に在る階段から。モスクは扉が閉められていて中が見られない。グーグルマップの写真で見ると ブルーを基調にした豪華なタイル装飾(グーグルマップで見て欲しい)。

https://www.google.co.jp/maps/@41.0047972,28.9720915,20z

 

 

前庭

正面側

 

 ここから北西方向に進めばチェンベリルタシュに出るはずと歩くが、近道だと思った小道と坂で迷いかける。確かにチェンベリルタシュに出る道に行き当たったところで、声をかけられる。道端の茶店でチャイをしているのは朝オベリスクのところで話した日本語土産物屋客引き。客引きモードではなさそうなのでチャイに付きあう。

 彼は川越に住所もあって在留許可を持っているが、コロナ対策で日本に入国できないそうだ。数か月ごとに行き来して、トルコの物産を日本のデパートなどに卸しているそうな。サッカーJリーグの話は私がよう判らん。安倍首相が辞めたがトルコのエルドアン大統領とは仲が良かったけどと言う。日本の外交なんか急に変わることもない。次は誰になるのかと訊くから、「自民党の中の話で安倍に近い誰かに決まっているのだろう、次世代の誰かと言うなら河野の息子が出てきたらいいかも」と答えておく。

 友達とビールを飲みに行くという彼と別れ、チェンベルリタシュへ。 この先ヌルオスマニェジャーミィの横からグランドバザールに入る。

 

ヌルオスマニェジャーミィ

グランドバザール

 

陶器、タイル

レストラン

チャイ屋

グランドバザールの出入口のひとつ

 

 タクシムに戻って、イスティクラル通りを歩いてみる。

テュネル駅近くのカフェ

 

 夕食はロカンタの一つに入る。並べられた料理は美味そうなのに、豆スープ、羊肉、味付けライス、で今回最低の味。こういう店は料理の見せ方よりも、常連客が居そうかどうかをチェックしたい。

 

ロカンタ

 

 口直しに昨日の菓子屋。メニューを見ると、伝統菓子より新作をいろいろ探っているようで、押しメニューの西欧風ケーキを試す。うむ、まあ食べられる。トルコだから全体に甘い作りだが嫌みが残らない甘さが良い。ただクリームは弱い、日本の洋菓子のクリームはレヴェル高い。

チーズケーキ

チャイスプーン

 

 チャイスプーンの柄に店の名前『hafiz mustafa 1864』 のレーザー刻印が有る。昨日から顔見知りの若い給仕に、スプーンは売ってるか尋ねる。「売ってませんけど」、 「これ土産にええと思うねん、何とかならんか?」、ちょっと考えて「ほな、横向いてますし」。

 店で使いこまれ細かい傷があるものの、小ぶりな割に重さが有って面白い。

 

 

(18)終わり