8 月 22 日

 

、今朝はこれまでなかなか入れなかった地下宮殿と呼ばれるコンスタンティノープル地下貯水槽から。トラムでスルタンアフメットへ。ここはイスタンブール博物館カードでは入れない。ユスティニアヌスの時代に貯水槽として造られたとされる。様々な列柱が使われているのは、貯水槽だから廃材や時代遅れの趣味の余り物などを用いた為とされる。

 

地下宮殿(貯水槽)入り口

地下貯水槽

目玉模様のある柱

 

 トラムでイスタンブール大学まで移動し、少し歩いてヴァレンス水道橋のたもとへ。AD373年に完成したよ うで、当時のローマ皇帝ヴァレンスの名で呼ばれている。オスマン時代まで機能していた。

 

ヴァレンス水道橋

真ん中の建物の後ろに水道橋が通っている

右イスタンブール大学の壁、前方にスレイマニエ

 

 右側のイスタンブール大学の敷地に沿って更に進むと、スレイマニエジャーミィ。ガラタ塔の辺りから旧市街側を望むと、中ほどにひと際大きく建つモスク。オスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン大帝が建てた。完成は1557年、設計建築は当然オスマン帝国最高の建築家ミンマールシナン。本体も立派だが、周辺に付属の諸施設(霊廟、イスラム神学校、救貧院、病院、隊商宿など)も整った建築群。

 

スレイマン廟

テラスから金角湾を望む、手前は神学校の屋根

スレイマニエジャーミィ

光をふんだんに取り込むドーム構造

床面

スレイマニエ正面側

 

 観光客には、アヤソフィアやトプカプ宮殿に近いからかスルタンアフメットジャーミィ(ブルーモスク)が定番だが、総合的な建築群としてはこちらのほうが評価されても良いと感じる。

 

 西側に出て、下り坂の前方に目をやると谷を挟んだ向かいにビザンツ様式の修道院建築ゼイレックジャーミィ (12世紀前半に創建の聖パントクラトール修道院)。世界遺産登録されている建物。

ゼイレックジャーミィ(パントクラトール修道院)遠望

 

 なかなか凝った造りで、さすがに12世紀当時の最高格式修道院であったかと思わせる。これを目指して坂を下って行くと、廃屋が目立つ中に小規模の段ボール加工場など、何やら荒んだ地区。

 それを下りきると、めちゃめちゃ下町感の漂う地区になる。小商店が並ぶ小路の角に、おっさん連中が集まっている建物がある。うむ、この雰囲気は賭け事屋だろうと覗いて見る。煙草を吸いながら新聞を見つめるおっさん連中の頭上にテレビが一台。 奥の番台みたいなところにいるのが賭け屋の親父だろう。

トルコの場外馬券屋

 

 トルコ語のみの世界だが、今日の競馬の第1R発走は13:30で、距離は1500mのダートらしいのがおっさんの説明でわかる。競馬ファンならお互い要点はだいたい理解できる。コースはダートと芝が在る。馬がアラブ種なのかサラブレッドなのかいまいち良くわからない。今は11時過ぎで1Rまで数時間ある。(ウィキペディアでトルコ競馬を調べると、トルコジョッキークラブが運営者でアラブ種とサラブレッドの両種の競争が有り、国際グレードのG2競走まで開催している)。午後もう一度来いというおっちゃん連中と別れ、小路をちょっと進むと、アタチュルク大通りに出た。

 

 左手にヴァレンス水道橋、目の前の高台にゼイレック。交通量が多いアタチュルク大通りを横切る地下通路は、商店街になっている。

 自然石を敷いた部分も残るきつい登り坂を上がったところにゼイレックジャーミィ。パントクラトール修道院の創建は1118年から1124年、ヨハンネス2世コムネノスの妻イリニが建てたそうで、オスマン時代に神学校(ゼイレックの名は神学校の初代校長)になった。

 

ゼイレックジャーミィ

 

 18世紀の地震と火災で荒廃していたが、1960年代から修復作業が行われているそうな。今見ると、地域のコミュニティで修復やその他の活動が積極的に行われている雰囲気がある。テラス状になった前庭のカフェ(地元客向けだがちょっとハイセンス)と、そこからの眺めはお薦め。アタチュルク大通りを挟むこちら側の地区は、昔は高級住宅地だったらしい。

 

ゼイレックのカフェからスレイマニエを望む、眼下はアタチュルク大通り、道端のモスクの裏あたりに馬券売り場が在った

ゼイレックのカフェから金角湾とガラタ塔

 

 アタチュルク大通りに下りたところでタクシーを見つけ、カーリエ博物館(コーラ修道院)へ。ここは過去2度訪れている。14世紀のモザイクとフレスコ画が残り、世界中のモザイクの中でも必見の逸品である。タクシーを降りると何やら雰囲気がおかしい。建物全体に修復作業の足場が組まれていることもあるが、予想外に入場を待つ列が長く、本当にこの列なのか先まで確認しに行くとTVカメラと報道関係者らしい連中がたむろしている。なんと大統領は昨日このカーリエをアヤソフィアと同じく、博物館から再びモスクに戻す大統領令を発したそう な。

 

カーリエの前のTVクルー

 

 入場を待つ列が途切れず長いので、入場口の係員に今日は何時まで開けているのか、明日は何時から開けるか尋ねるが、『わからない』の返事。モスクにしたのなら礼拝時間は見学禁止になるが、それなら無料というか入場料を取ることがおかしいことになる。係員はとにかく指示が出たらそうするだけで、いつどうなるかわからないのが本音。さしあたりは、これまでどおり博物館として入場客をさばいているらしい。

 

 カーリエの前にカフェレストランがあるので、ここで昼食。鶏の切り身を串刺しにして焼いたもの、美味い。TV 関係者も何か起こることを待っているだけなのか。カフェでそれぞれ昼食をとり始める。

鶏のケバブ

 

 食べ終わってもいっこうに人の列が減らないので、カーリエはやめて、近所にあったビザンツ後期の宮殿跡を見に行くことにする。33年前に訪れた記憶があるが、荒れ果てたままでテオドシウス城壁に繋がる壁の一部が残っていただけ。コンスタンティンポルフュロゲネトスの宮殿と呼ばれるもので、13世紀後半から14世紀初め、ミカエル8世パレオロゴスの時代にプラケルナエ宮殿(プラケルナエはこの地区の名前)の一部として造られたとある。

 時代は第4回十字軍によってコンスタンティノープルを追われたビザンツが、十字軍が建てたラテン帝国からコンスタ ンティノープルを奪回し、最後の王朝となるパレオロゴス朝の初めで、ここが皇帝の住居として使用された。

 1453年のコンスタンティノープル陥落時にかなり損傷を受けたようで、遺構は1719年に5基の窯を持つ陶器工房になりイズニック風のタイル・皿・器を生産したがそれも100年ほどで、20世紀前半にボトル工場があった後放棄されていた。2006年からイスタンブール市が修復を行い、2015年に大幅な修復工事が完成したとのこと。

 

テオドシウス城壁に沿った道

壁に繋がった宮殿

修復された宮殿から金角湾を見る

 

 今では屋根や床が現代建築で補修され、三層構造の建物が博物館として整備されている。中庭部分や接続するテオ ドシウス城壁部分も手入れされている。

中庭側

 

 宮殿を出て、金角湾のフェリー乗り場を目指す。下りではあるがきつい坂道、太陽は強い、思ったより遠い、狭い道が入り組んで迷いそうになる。なんとか金角湾沿いのバス通りに出る。バス停があって、折からやって来たバスの行き先はタクシム。タクシム広場からなら地下鉄でも旧式トラムでもホテルに戻れる。バスはアタチュルク橋を渡って坂を駆け上がり、ちょっと見覚えのある地下鉄シシュハネ駅に近いところを過ぎて、もうすぐタクシム広場かというところでトンネルに入る。道はタクシム広場の地下を抜けている。ここで降りないと広場に出られない。実は乗り越して、運転手に訊くと、「バスはこの先で折り返して逆方向の戻り便になるから、広場の地下で降りろ」と教えられた。

 

 広場に出てノスタルジックトラムの停留所、時刻表では20分毎に走っているらしい。結局30分以上待っていると、1台で往復しているトラムがやっとやって来た。終点まで乗って、少し坂道を下ればホテル。

 

ノスタルジックトラム

 

 

(9)終わり