先日の日記で、36歳の1年間は、やりたいことをやる、と書きましたが、
やりたいことの筆頭は、実は、シンガポールにもう一度行く、ということです。

今年の2月、8年ぶりの海外旅行、
初めての子連れ海外旅行、で、
長男(6歳)とシンガポールへ行きました。
無理やり、息子の「ソツキ(卒園記念旅行)」という名目で、3泊4日。

「なんでシンガポール?」とよく聞かれたのですが、一言で言うと、
「ラクそうだったから」。
・英語が通じる。
・日本からそれほど遠くない。
・都市なので衛生に気を遣わなくていい。
・食べ物おいしそう(子どもも食べられそう)。
・こじんまりしてて、短い旅行でも行き先に迷いが生じなさそう。
というような感じ。

決して旅行はキライでも苦手でもなく、自分自身のソツキでは、
ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンを3週間バックパックしたほどですが、
海外初めての未就学児を連れていくわけだし、
仕事と育児しながら、マイナーな場所を訪れる準備の時間はとれなくて。

そして、一言で言えない理由としては、
学生時代の友人が、仕事でこの国に派遣されて、いい国だと言っていて、
それを訪れた別の友達も、すごく楽しかったと言っていたこと。

さらに、私は当時、英語教育に関わる仕事をしていて、
シンガポールは、英語を公用語にして成功したと言われている、
いい意味でも悪い意味でも、お手本になる国。
その点からも興味があり、行こうかな、と思った時点で何冊か本を読みました。

読んだ本。
『多民族社会の言語政治学-英語をモノにしたシンガポール人のゆらぐアイデンティティ』(ひつじ書房)。
『シンガポール都市論』(勉誠出版)。
『シンガポールの教育と教科書-多民族国家の学力政策』(明石書店)。

……マジメだなあ、私。

しかし実際のところ、読んでこの国に対するイメージが変わったのです。
以前は、この国を「人工的な国」だと思っていました。
文化や歴史がないところに、経済的な理由で、人が集まって、
人工的に作り上げた国。
それで国として成り立つのかなあ、不思議だなあ、と。
それは、どちらかというと、ネガティブなイメージでした。
が、上にあげたような本を読んできて感じるようになったのは、
同じ「人工的」という言葉でも、この国は、
血の通った人間が、苦悩と決断と努力の末に、
自ら作り上げてきた国なのだ、というイメージ。

このとき、私はなんだかシンガポールの人たちがうらやましかったのです。
国のサイズ、人口の違いもあるとは思うけれど、
シンガポールの人たちは、みんな、自分がこの国を選んだという自覚があって、
この国をどうすればいいかということを、一人ひとりが考えているのだなあ、
というふうに感じられたので。

日本の中にいると、この国をよくしたい、と思う人もいるけれど、
それ以上に、「だれかなんとかして」と批判ばかりする人が多いような気がして。
日本人であることに疑問もなく、もちろん、この国を選んだなどという意識もなく、
自分や自分のいるこの国の状況に、個人が責任を感じることもなく。

……と、なんだか話がずいぶん大きくなってしまいましたが、
そんなわけで、シンガポールがすごく魅力的な国に思えてきたのでした。

ずいぶん長くなったので、いったん切ります。
続く。