私の心の奥底には、積み重なった「否定の心」がある

 どんなに頑張っても、「望み通りにはならない。結局自分の目指すところまではいけない」という声が聞こえる。誰かに褒められることがあっても、心から正直に「そんなに良くない。いくらかうまく出来たかもしれないが、良くてもせいぜい普通だ」などと思うのである。

いつからだろうか。子供の時からだ。

 稼業を継ぐ長男として「どうせ自分は、自分の思う道に進めないのだ。何をするか決まっているんだ。どうあがいても逃げることは許されないのだ。私は自分のしたいことができない環境に生まれたのだ。あきらめるしかない」という思いが、深い心の底にどうしようもなく厚く積み重なっている事を自覚する。

だから他人にもクールだ。

 友人が、妻が、誰かがうまくやれても、たとえ賞をとったとしても、手放しで称賛の言葉が出ない。「よかったね」としか言えない。実際には、冷めた思いで「そんなに喜ばなくても・・・・結局すぐに忘れられるんだから」とか、「自分ならそんなにバカみたいに喜ぶない、恥ずかしい」などと、次々と否定の心が反応する。外見では喜んであげても、本当に共に喜んではいない。うらやましいとも全く思わない。

子供の頃に自分を自分で言い聞かせてきたせいだろうか。

「何を希望しても、結局できないのだ。だから思うだけ辛い」と。そして自然に私の心には、たくさんのしたいことが浮かぶ。そしてやってみる。しかし「否定の心」があるために十分にではなく、7分目の出来にしかならない。「これでいい、どうせすぐに壊れるから」と。


「肯定の心」「喜ぶ心」「楽しむ心」が欲しいと切望する。

 「否定の心」が全身に染み込んでいながら、同じほど強く「肯定の心」があればと希求するのである。「どうして自分はいつも、心から喜べないのだろうか。どうしていつも、良いことの反射に、同じほど警戒の思いが生じるのだろうか。良いことがあれば次に悪いことが・・・・。楽しいことの後には辛いことが・・・・と反射してしまうのか。素直に「肯定の心」があったらいいのにと切望する。聖書に、信仰者にそれを期待した。

 カトリックの貧しい教区の司祭が、身を粉にして、自分を利用する信者たちをさえ助けようとする映画があった。騙されても、奪われても、ニコニコして「どうぞ、どうぞ」という司祭は、献金の少なさを補うために、または上位の教会に上納する献金を稼ぐために、深夜道路工事のアルバイトをする。自分を無くして、人に仕える。ニコニコしている。
 私は小学校5年生の時にこの映画の司祭を見て「こうなりたい」と思った。しかしそんな人はなかなかいないし、現実性が薄いとも思った。それでも憧れはずっと残っていた。

大人になって「エホバの証人」と出会って、同じ「ニコニコ」を見た気がした。

 彼らと接してみたいと思った。「否定の心」が見えない。「奉仕の心」「感謝の心」「神への信仰と確信」が見えた。そして私はやがて「エホバの証人」になった。すべてをかけて「勉強し、奉仕をし、知識と心を磨き、動機に純粋さを求めた。イエス・キリストの模範は素晴らしかった。福音書のイエスの姿勢や態度、教えは、人生の教科書だと思った。それは今もずっと変わらない。

しかし「エホバの証人」の限界を知った。

 実際のエホバの証人たちは、「否定の心」が同じように、あるいはもっと強く存在していた。「人は罪びと」「人は悪いことをする」「自分の心を信じることはできない」「すべてを神に、神の組織にゆだねよう」・・・・「あなたは罪びと」。
 そして外見は精一杯「喜び」を「確信」を「愛」を「親切、感謝、自由、解放・・・・」などなどを表現する「笑顔」を作る。彼らは自分たちの喜びを精一杯演じる。そして光ろうとする。
 「私たちはエホバに選ばれた神の民としての特権がある。私たちは無知の人々とは違う・・・・」という特権意識。言い換えれば「選民思想」の変化形さえ動員して、自尊心を保つ。
 彼らの多くは、相変わらず「エホバの民で幸せ・・・・私たちは世の人々は違う・・・・世の人々はかわいそう・・・・いざという時エホバは助けてくださる・・・・世の終わりには私達だけは助けられる・・・・」と信じ込もうとする。けなげな、すがるような、おびえた子供のような心、大人を頼り続ける者となっている。
 講演者、群れの監督、地域のある責任者、裁くもの、励ますもの、教える者として20年以上費やした結果が既存宗教の限界、または人間組織の限界であった。

「エホバの証人」に、真の自由も喜びも、低い位置で止まっているのには、訳がある。

 その教理、教え、姿勢全体が、イエスとは似て非なるものなのだ。巧妙に変質した教え、組織が統制を図る人間的な脅迫思想、心を奴隷化するかのような自分を信じさせない教育、そして神と組織に全面的に信頼と従順を求める教え、巧みに金銭を求めて個人の犠牲を尊ぶ風潮など。根底には「自分否定の心」の教理がある。
 彼らは苦しい、悩む、迷う、無感動、無関心、指示を待つだけの人間として無気力でもある。集団に依存し、個人では怖くて仕方ない者になっている。ここに、「否定の心」に対する「肯定の喜びの心」はないと知った。

「聖書」には、似非(えせ)指導者たちへの警戒が記されている。

 人間の弱さに漬け込む者たちへの注意が記されている。本物と似てはいるが、異なる部分も多いので、限界が生じるのだ。すべてが悪いわけではない。真理が多分に含まれているのも事実。ほとんどの宗教はそうである。
 私は人間の宗教組織を出た。人間に依存しない真理を探そうと。・・・・そして見いだしたと思う。

 

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(付録)野良犬だった「メイ」をご紹介

捕獲直後の柴犬

この子の名前は「メイ」、女の子。捕獲直後の柴犬。

 

野良犬だったのを、どうにか捕まえた。真冬の青森県十和田市。とても寒い厳冬期にも、パチンコ店の駐車場をうろついていた。家の犬の散歩をしていた妻が、犬に導かれていった先に、この柴犬が隠れていた。ある家の庭の木の下に穴を掘って寝ていた。柴犬は驚いて逃げた。

 それから妻は時折、魚やペットフードをもって、その場所に置いてあげた。湿った雪と氷点下の気温、時折雨で犬は濡れていたが、その駐車場から移動しようとはしなった。私は捕まえようとしたが、見える範囲でいつも逃げられていた。どんなに食い物で誘っても、この子は来なかった。

 時には小学校に、時には離れた地域に、時にはある飼い犬の餌をたべ、時には小屋のシャッターの中で寝ていた。人を避けて歩いた。彼女を追ってみると、家と家の間の側溝や、庭と家の間を、隠れるように歩いていることがわかる。多くの人がこの子を見ていたが、今時野良犬か?と思っていたようだ。

 

 春のある日、庭先で作業をしていると、道路をチョコチョコとこの子が通り過ぎた。あれ?と思ったがもういなかった。少しして隣の奥さんがこの子を抱いてきた。捕まえたのだ。警戒もなく触らせ、捕まえたと言う。しっかり抱いてきて、私に渡してくれた。

 私は面倒することにした。首輪をしてもおとなしかった。まず水とペットフードを与えると、すぐに食べた。そして庭の薪小屋に入れて調べた。毛は汚れ、びっしりとダニが皮膚に突き刺さっていた。その数は無数。とるのを諦めて、ダニ駆除の薬を皮膚に塗った。次の日、ダニは死んでいた。

 動物病院で検査をすると、フィラリアには感染していなかった。極めて健康が良好だった。

動物病院でおとなしく待つ柴犬

 

 まずは、外で何度もシャンプーして汚れを落とし、毎日毛をすいてやった。人慣れしていて、おとなしく、愛らしく、初めて安心したように、段ボールの小屋の中でぐっすりと寝ていた。

 干した鶏肉を使って、訓練を始めた。名前は「メイ」にした。トトロに出てくる女の子メイに雰囲気が似ていた。活発で愛らしかった。庭に離して遊んでいても「メイ」と呼ぶと飛んできた。暑い日には木陰に座っていると、メイも来て隣に並んで座った。なでてやると喜んだ。隣の捕まえてくれた奥さんは毎日様子を見にきて、かわいがった。メイも答えた。

捕獲後の薪小屋のメイ。まだ洗っていない。

 

 警察にも届けた。愛護センターにはやらない。3ヶ月すると、落とし物として自分のものになるという。3ヶ月目に自分の犬になった。その間、外で散歩できるように、自分に慣れさせ、訓練した。私は「シーザー」を見ていたのでその訓練をまねした。この間に、掃除がしやすく屋根があいて、冬のために床暖房付き犬小屋を制作した。メイは体に肉もついてきて、重くなった。当初はとても軽かった。

何度もシャンプーした庭先で見張りをするメイ

 

 そろそろ、散歩をと思っていたとき、庭でメイの悲痛ななく声が聞こえた。行ってみると、メイがひっくり返って、動かなくなっていた。何が起きたのか理解できなかった。メイ、メイと声をかけたら、一声「ク~ン」と泣いて、カクンと事切れた。食べたものもない、高いところから落ちるようなこともない、ただ庭にいただけ。うちは猫もいるので、庭には農薬をまいていない。死因は全く不明。獣医に聞くと、心臓麻痺か脳梗塞か、とにかく突然死の何かではないかという。死因を知るには解剖をするしかないという。

 翌日、妻とともに、庭の隅に埋めた。隣の奥さんが花を持ってきてくれた。

死んだ直後のメイ

 

作った犬小屋に横たわるメイ(死後の写真)。保温器付きの小屋が使われれないまま、亡くなった。

 

あの寒さの中を半年生き延びて、ようやく安心して眠れるようになったのに、家に来てから4ヶ月目に突然死。その不憫さに心が痛んだ。パチンコ店の駐車場から離れようとしなかったところを見ると、もしかしてそこで捨てられたのかもしれない。メイは飼い主が迎えに来るのをそこで待っていたのかもしれないと想像している。

 捨てるやつに腹を立て、人間の非情さに謝りつつ、しかし、もう寒さに震えることはないと、霊の住処にたどり着いたメイに、心で語りかける。

 そのうち、そっちでまた会おうね。

 

(その後)

亡くなって数日後、夢に出てきた。私の前に突然現れて、私を何かから守ろうと、ワンワンとけたたましく吠えた。私は「メイ、もういいよ」と止めて、抱きしめた。メイは私のそばにいたようだ。

 目覚めてから、ああ、夢だったのか。それにしても現実的な夢だった。おそらく、実際に何かから守ろうとしてくれたのだろう。サイキカル界で・・・・。