想定通りの暑さ。想定していてもしのぐことはできない。ただただ暑い。

ぎりぎりで駆け込む。本当にぎりぎり。ずっと前から行きたいと思っていたけれど、ぼんやりしてしまったのがよくない。言葉でしか伝わらないことがあるけれど、言葉にしたとたん伝わらなくなることもある。毎日誰かの言葉を翻訳しながら生活していると考えることもできるのかもしれない。だけど、そう考えてしまうと本当に翻訳が必要な場面を矮小化してしまう。ゆっくりと日本語の標準語を第一言語としている自分として、臨む。ユニ・ホン・シャープさんの作品は、第一言語が何かでずいぶん考え方もかわるんだろうなぁと。親子でそれが違う場合のズレみたいたものは渡辺さんの作品でも取り上げられていたけれど、言葉がもつ文化も呑み込んだズレがあるはず。マユンキキさんの作品は、実際にマユンキキさんがいらっしゃったけれど、とても落ち着かなかった。ご本人の存在が、ではなく、他者のプライベート空間への居方が自分は上手くないというか、心地好いとあまり思わないのが大きい。それとこれは展示空間との関係もあるけれど、ユニ・ホン・シャープさんの作品にも南雲さんの作品にもマユンキキさんの音声が被りすぎていて、居心地が悪かったのもあって、少し腰が引けました。南雲さんの作品は、その人が相手によって言葉を使い分けることの意味を考えさせられた。こんなにクリアではないけれど、あるコミュニティの中で、なんと自分が呼ばれるのかによっても、喋り方や言葉遣いが変わってくる。それがよりクリアにみえることで、言葉がその人の人格に与える影響の大きさを確認できる。カメラが回っているから、意図的にやっている訳ではないと思うし、パートナーとの作品が一番所在なさげでほのぼのして面白かった。新井さんは、言葉の人ではないと思うけれど、その身体が表す言葉の意味を考えさせられる。色んな体験をしながら、思考を追いかけることごできる。水の袋についてはダンスのWSでよく言われることなので、具体的で面白かった。和紙をモミモミするのは、『倭文』と繋がった。ただ病との葛藤は激しく深いものではないかと思うと、そこにのほほんと居続ける事は難しかった。金さんの作品は、ここにきてやっと出会えた!という感じ。ソニーイメージングギャラリーでは少ししっくりこなかった部分が何となく腑に落ちかけた。

やっぱり言葉は大事だけれど、言葉(だけ)では表せないものが、子ども等の表情にはあって、それを観続けることは、やっぱりのほほんとはしていられない緊張感があった。このなんとも言えない表情を彼らが時間を重ねて見た時、どんな風に思うのだろうか。色々あったけど、まずまずだったよね、と思えたら、そう思えるような世界にしていかないといけないと柄にもなく考える。ただ、マユンキキさんのところで触れたみたいに音声に関しては、互いの作品に混ざってしまう場合があるので、少し対応していただけたらよかったらとは思う。映像作品が多い展示は時間がかかるし、集中力も大事だと思うので。

めげることなく歩く。歩くしかないから仕方ない。日陰を選んでこそこそと。