暑くても、暑くないふりをして過ごす。ぼんやりして過ごす。

イスラエルの虐殺が続く中、若い人たち、大学生が世界各地で緩やかな連帯の動きを見せている。日本でも行われているのだけれど、日本はどうしてもかつての政治の季節のしこりが、残ったままで、それを引き摺っているように思う。だけど、その熱意や想いは決して間違っていなかったのではないかと思う。その中で「暴力」が肯定されたことが間違いだったのだと。どうしてそうなってしまったのかは、誰にもうまく説明できないのかもしれないけれど、だからこそそれを知っておくこと、繰り返してしまっても、何度でも顧みることが必要なんだと思う。あの時を体験して関わった人たちが70代になっている今、今だからこそしかとまとめて発信してくれたことに感謝したい。本も読まないと。で、映画については、思っていたよりも不思議な感覚にとらわれた。確かに重苦しいテーマではあるけれど、ぐっと重苦しくならなかったのは、ドラマのメイキングパートがあったからだと思う。証言と文字情報、ドラマで構成されていると勝手に思っていたけれど、そこに思いもしないタイミングでメイキングパートが挟まれることで、この出来事を地続きのものとして、今の時代に接続することが容易になったのではないかと思う。ある意味、ドラマパートを演じる役者は、それが起きた時代のことなんて「昔の話」としてとらえることすらできていない状況にあるわけで、それは演じられるものではあっても、世界が違い過ぎるという感覚のほうが強いと思う。そのあたりの戸惑いやわからなさも含めて、観ている若い世代には共有できるものがあったと思う。あの時代にあった「熱」は、それぞれの中にあったものが生み出したものだとしたら、今の自分の中にもそれはあるわけで、それと向き合うことは苦しいけれど、眼を逸らしてはいけない。そして、自分の中でこの事件のことは知っていたつもりだったけれど、やっぱり知らないことが多かったこと、そして、100人以上の方が「内ゲバ」で亡くなり、その方たちのことも100人以上という数字で括らずに捉えなおすことが必要なんだと感じる(実際には難しいにしても)。そして、今の時代にできることをこつこつとやっていくしかないと改めて思う。

なやかんやと順調にしぼれてきたような…。気がするだけか。