やっぱり湿度があがると不快度が増す。わかってはいても実感したくない。

見逃してはいけないので、いそいそと出かける。やっぱり映画館で観て良かった。光と音は映画館で観るに限る。画面の大きさはさして問題ではない。唐突に訪れるブラックアウト。そのなんとも言えない時間。あれ?始まったよね、と暗闇に目を凝らして集中する。そこから始まる、ほんわかした家族のピクニックの姿にその緊張が解ける。だけど、家に戻ってくるとじわじわと迫りくるものが。ハッキリとではなく聞こえてくる人々の声や「何か」が行われている物音。たなびく煙。とにかく、音がすごかった。これは映画館で体験するから余計にそう思う。でも、ここでふと思う。あれこれこの家族の生活を見ているだけで感じるこのざわざわは、その塀の向こう側で行われていることを知っているから、感じるものなのか、果たしてどうなのか。例えば、なんとなく知っているだろう訪ねてきた母親はそれが不穏なもので自分を苦しめる可能性や無関心でい続けるだけの気持ちになれずにあの家を出たのかもしれない。だけど、幼い子どもたちは、その生活環境の中で日常にありふれた音や光景だとしたら、そう感じないんだと思うと、改めてぞっとする。何かの犠牲の上に成り立っているこの生活を、その犠牲を直接的に描かずに表現するというよりも、見せずに物語を進めるのは、観客に多くを委ねている。だから、登場する子どものようにアウシュビッツで行われていたことを知らない人は、ざわざわしないんだろう。そういう意味では、観客を選ぶ作品なのかもしれない。とはいえ、毛皮や衣類、はたまた宝石の話、それと歯も、収奪されたものは数限りない。そういうものを手掛かりに、取り返しのつかない生命が日常的に奪われているということも朧気ながら見えてはくる。川で遊んだ時に、何かに気づいて執拗なまでに洗ったり、あれこれ散りばめられたヒント?はたくさんある。温室に閉じ込めるのも…と想像が仕向けられていく。暗視カメラにだけとらえられる少女は、果たして生き残ったんだろうか。女性に対する凌辱もその後の行為も本当に絶望的。追い込まれるとそればかりになってしまうのが苦しいといえば苦しい。にもかかわらず、終盤に突然現れる「現在」。一気に今行われている虐殺から、その結果だけに引っ張られる。あぁ今自分はこの時点辺りにいるんだと思う。それは決して安堵感ではなく、この虐殺は歴史事、時間も場所も異なるもの、として整理ができても、今行われている虐殺については、どうなんだとグッと胸倉をつかまれる。そんなことをとにかくあれこれ考えさせられるのは、突然訪れる絵のない時間や細かい音によるもので、それは映画館で体験するに限る。だけど、もし匂いがついたら、この体験に耐えられるのか、絶望的な気分になる。

読まなきゃいけないと自分に課した本が多すぎて、追い付かない。お金が足りない…。