コロナ禍で、ながらく止まっていた世界がふたたび動き始めました。
新しい時代は、以前とはちがう、とかんじます。
わたしたちは、あたらしい時代にふさわしい「あたらしい生活様式」を生きることになり、
そのために、あたらしい価値観をあらたに持って生きることになるでしょう。
わたしには、この期間はそのための準備期間だと考えていました。
あたらしい時代の特徴のひとつは、まもなく、「常識を求めなくて済むようになる」ということです。
「常識」は、わたしたちが生きていく中で孤立しないために必要な情報でした。
「常識」を外れた行動やステイタスは、社会の隅っこに追いやられ、虐げられることが多かったので、
そうならないように、人は自分の行動を制限しなければなりませんでした。
たとえば、
「結婚」。
離婚したら、子どもがかわいそう(実際いじめは多かったです)だから、離婚しない。
然るべき年齢に結婚しないと、白い目で見られる、
子どもを産まないと、一人前でないと言われる、
人と同じでなければ、どれほどの不利益があったことか。
社会で平和に生きていくために、意に沿わないでそれをえらんだ人も多くいたはずです。
しかし、30年近く前、インターネットが普及しはじめ、
世界中を旅する人たちがあらわれたころから、
鎖国していた時代や、海外旅行が高価で選ばれた人だけが海外に行くことができる時代と違って、
多くの人が、瞬時に、安価に、世界中の情報にアクセスできるようになりました。
今までは知ることがなかったわけですが、海外と交流できる人が増え、
離婚しても、結婚しなくても、子どもがいなくても、よい場所がある、ということを知ることができるようになったのです。
わたしが子どもの頃は、離婚する人はほとんどいませんでした。
母子家庭の同級生のほとんどは、死別でやむなくお父さんを失った人たちでした。
したくても、できない、というのが現実だったのです。
今は離婚を恥と思う人は当時よりずっと少なくなったと思います。
わたしたちのこの世界は、しあわせも、不幸も多様化してきました。
だから、「常識」をいうものがゆらいできました。
一方、少数意見のほうも、SNSを通じて繋がれるようになりましたから、
世界のどこかに同じ価値観を共有する人をみつけやすくなり、
少数意見が孤立することもだんだん少なくなってきたようにかんじます。
きっと、今まで平和に生きるために必要だった大きな「常識」はゆるやかに崩壊してゆき、
代わりに、自分自身の本当の思いが共鳴しあう仲間のあいだに、「小さな常識」が生まれていくでしょう。
わたしたちは、たったひとつの地球を共有して暮らしているので、常識がぶつかり合っても、うまくやっていくほかなく、
常識を共有できないグループとは、コロナ禍で予行演習したように「ソーシャルディスタンス」を保つことで、
お互いを認めていくしかないはずです。
だから、もう常識を恐れなくてよくなっていきます。
わたしは、本当は何をしたいのか?
日々、あなたの心に問いなおしていただきたいのです。
これからの世界は、わたしたちひとりひとりに、自立を求められていくでしょう。
それは、自分の幸せな人生に、責任をとるということなのかもしれません。