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わたしは、生まれつき情が薄いです。
わたしも含めてサーダカ(沖縄の言葉で、霊力の高い人)は、情が薄い人が多いと感じていました。
もともと子どもは薄情とか、残酷だとか言われることがありますが、
まだ生まれてこの世の教育を受けていない頃は、「情」というものが理解できないのだと思います。
魂の世界には、「情」というものはないからです。
ですが、この現実の世界には、「情」とか「感情」が存在します。
「情」のせいで、やりたいことができなかったり、
「感情」のせいで、苦しんだりする人たちをみて、
わたしはずっと長い間、不思議でならなくて、
「魂の声に従って生きたらいいのに」と思っていました。
そして実際に、この仕事を始めた頃は、そんなアドバイスをしていたと思います。
ですが、だんだん、人間には、「感情」というものが存在して、
また、「情」というものがあるから、
人は人らしく、安心して暮らせるのだな、ということもわかってくるようになりました。
たとえば、交際しているパートナーがいるのに、他に好きな人ができたとします。
すると、魂は、好きな人と共に過ごしたいと願います。
(本当は逆で、魂が出会うと決めていた人に出会ったから、一緒にいるために、好きという感情が起きるわけですが)
わたしのような情に薄い人は、好きな人と一緒にいることを選びますが、
多くの人はそうしません。
それは、「相手を傷つけたくない」、という「情」からきます。
「相手を傷つけたくない」という思いは、同時に「自分が傷つきたくない」という思いの側面のあらわれでもあります。
感情は、行動を起こすためのエネルギーでもありますが、「怖い」という感情や、「情」は、時に行動を制限することもあるのです。
亡くなったパートナーは、「自分のやりたいことができていない」というのが口癖みたいな人でした。
わたしは、いつも「自分がやっていることが自分のやりたいこと」と思っているので、
不思議でなりませんでした。
実際に、彼はいつもニコニコしていて楽しそうだったからです。
でも、彼を亡くして、どれほど自分を犠牲にして寄り添ってくれていたか、痛いほどわかりました。
もともとわたしは欲がうすいので、ひとりでいるとご飯を食べたり、買い物したりもうっかりすると忘れてしまいます。
でも、なにか食べようと思ってご飯を食べるとき、旅先で美しい景色を見たとき、「おいしいね」や「きれいだね」を共有できる人が今はいない、ということが、すごく悲しいんです。
こんなにも、悲しいことがある、
それは今までにはない体験でした。
彼と出会うまでのわたしは、旅は基本ひとりで、それが普通でした。
子どものときから、ご飯は自分でつくって、ひとりで食べるのが日常で、それを悲しいとか寂しいとか思ったことはありませんでした。
もし、悲しいとか寂しいとか感じていたら、たぶん生きていけなかったでしょう。
そんな中で、彼と暮らした10年は、わたしにとってはじめて、人としてのしあわせを体験させてもらった時間でした。
ご飯をつくって「美味しいね」って言ってもらう、
おいしいものを食べて、「おいしいね」って言う、
一緒に旅をして、「楽しい」や「うれしい」を共有する、
プレゼントをもらう、
クリスマスや誕生日を祝う、
もちろん、誕生日を親に祝ってもらったことはなかったわけではありませんでしたが、
母は忙しくて、本当に形だけでした。わたしは人の本心がみえてしまうので、母の心がそこにないのが、よくわかりました。
でもそれも仕方がないことだと思っていたし、それで十分ありがたいと思っていました。
でも彼は「人間らしい欲」を持った人でしたから、いつも誕生日は特別なワインをあけてくれたり、ディナーを予約したりしてくれました。
そしてそれを選ぶのもとても楽しそうでした。
子ども時代にあるはずの、そんな人間らしい体験を、わたしは彼との暮らしで、はじめてさせてもらったんだなって思いました。
彼は、情や世間体など、この世のルールに根ざしたお母さんに育てられた人でした。
お母さんは、だからいつも幸せそうでなくて、「わたしは家族の犠牲になっている」と不満を口にしていました。
そんなお母さんをみて、彼は心を痛めて、「母親にしあわせになってほしい」と言っていました。
おそらく彼は、そんなお母さんから、いろんなことをしてもらったんでしょう。
クリスマスやお節句は必ず、ケーキや季節のものでお祝いするし、お正月は親族で集まるし、学校の行事の用意も全部お母さんがしてくれたみたいです。
なんでもひとりでやってきたわたしとは、真逆の育ちの人でした。
お母さんは家族への奉仕に疲れて、彼はそのお母さんをみて「犠牲にならなくてよかったのに」と思っていたのです。
でも、わたしには、お母さんが彼にしてくれたように、自分を犠牲にして寄り添ってくれました。
それにひきかえ、それを大事と思っていないわたしは(大事と思っていたら、それが与えられなかったわたしは自分が悲しくていたたまれなかったでしょう)、彼がしてくれたことのほとんどをして返したことはありませんでした。
もちろん、お祝いもしたし、親族との集まりにも出ましたが親がしてくれたように、形だけでした。
彼の出会う前のわたしは、人が亡くなっても悲しくありませんでした。
わたしには、亡くなった人のほうが、存在をいつでも身近に感じられたこともありますが、たぶん感情がなかったからだと思います。それは、「楽しい」という体験が希薄だったから。
「楽しい」という体験がなければ、「悲しい」という感情もないのです。
なぜ、人は生まれてくるのか。
わたしはずっと身体を持ってこの世に生まれてくるのは、「やりたいことをするため」だと思ってきました。
それは、今も変わりませんが、わたしは、この世で魂が体験したいことの中には「感情」を味わうこともあるのだと思うようになりました。
あの世には、「楽しい」も「悲しい」もありません。
魂(たましい)とは、「たま(魂)」が「しい」を体験する、身体はその「たましい」の乗り物、とよく言われますが、
本当にそうだと思います。
身体を持ってうまれてくる意味は、感情を体験することもあるはずです。
今は、「情」に縛られて、身動きができない人が多くて「スピリットの思う通りにいきる」のが正しい、と思われがちですし、
かつてのわたしもそうでしたが、
よく考えてみれば、身体を維持するために、「情」や「感情」そして「欲」が存在するわけですから、
「情」や「感情」も、身体がなければ体験できないことです。
「やりたいことをする」ことも「感情を体験する」ことも、どちらも生きているうちしかできません。
どちらを選ぶか、もしくはそのバランスをとっていくか、はその人それぞれの魂のテーマなのだとかんじます。
そして社会的に成功している方は、そのバランスをうまくとっていらっしゃるように思います。
写真は、夫が撮った彼が大好きだったシロクマの母と子の写真です。
彼は、シロクマのお母さんに理想のお母さんを重ねていました。
シロクマのお母さんが、なにも知らないキラキラの赤ちゃんに外の世界を教えてあげる姿が大好きでした。
動物には感情がないと言われますが、彼は人間と同じように感情があると信じている人で、シロクマのお母さんの情愛と、子グマのお母さんへの思いを切り取っていました。
そして、シロクマのお母さんのように、この世の喜びをまだ知らなかったわたしに、たくさんの「楽しい」「うれしい」を教えてくれました。
彼のお母さんが、彼にそうしてくれたように。
そして、わたしはうまれて初めて、大きな「悲しい」を体験することになりました。
悲しい気持ちを感じる心は、楽しい体験があってこそ。
楽しい体験を得られた喜びを大切にしたい、そう思っています。