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玉ちゃんの独り言

玉茶庵店主の「玉ちゃん」こと玉岡です。

   亡父が生まれたのは能登の旧鳳至郡、現在の輪島市門前町で、総持寺などある門前町の中心部から輪島の市街地へ向かう街道(現国道249号)の峠近くから山道を数百メートル入った小集落にある小さな寺であった。立善寺と言うその寺は、鎌倉時代初期から数え現在従兄弟の息子で26代目に当たるが、あるのは歴史だけで門徒も少ない兼業寺院である。金沢の家からお盆の帰省するのも、子供の頃は国道までしか車で行けず、崖沿いの山道を歩いて登ったものだった。飲み水は山水で、朝刊新聞が届くのも昼というド田舎であった。崖道が一車線舗装道路(もちろんガードレールはなし)になった現在では、携帯電波(docomoのみ)も届くまでにはなったが、住民は2世帯だけになっていた。そんな時、地震は起こった。
 幸い従兄弟家族は無事で、寺自体は頑強な造りのうえ2007年の能登地震後に補強工事を施してあったので特に被害は出なかった。だが、連結する自宅部分は部分的に壊れてしまった。おそらく雨漏り修理等をすれば何とか住める程度らしかったのだが、ライフライン喪失は言うに及ばず、崖道が複数箇所崩落してしまい陸の孤島となってしまった。被災二日後、道なき山道を切り開いて来てくれた自衛隊に助けられ、脱出できたものの、その途中も地割れがあり、再びそこを通れるかもわからない状態だという。動脈である249号の復旧もまだまだな現在、市道とは言え2軒だけのための危険工事となる崖道の復旧は何年先になるかはわからないと輪島市議会議長でもある立善寺前住職の従兄弟は言う。つまり全壊ではなかった寺や家も何年も直すことができず、雨ざらしのまま捨ておくしか為す術なしということだ。地滑りを免れ墓石が倒れる程度ですんだ両親や親族の墓にも行くことはできないらしい。もちろんもっと悲惨な目にあった輪島市民は数多く、命が助かっただけでもいい方だと言われれば、返す言葉はない。
 今回の地震は、規模こそ阪神淡路や東日本の東北地方より小さいが、復興にかかる時間は、もしかしたらそれ以上になるかもしれないと思う。それは能登半島の独自の地形と住民の高齢率が他の地域より極めて高いからだ。輪島に帰省していて被災した従姉妹は齢60後半でありながら、避難所では若手として肉体労働に励んだそうである。思い出してみれば、朝市の売り手たちもほとんどがおばあちゃんと言える年齢の方々だった。時間がかかってもいずれライフラインは復旧するだろう。警報で5mを超えるはずだったのに1m強ですんだ輪島の津波被害は、確かに3m強の珠洲市以下ではあったが、その差4m隆起してしまった海岸は、津波被害より深刻で、簡単に戻せるものではない。輪島の漁業にゼロから港を造るだけの価値があると言える人は、残念ながらそうはいなさそうだから。そうなると必然的に海女や朝市の存続も極めて難しくなってくる。千年の歴史に我々の世代で終止符を打ちたくはないだろうが・・・ 
 漁業も朝市も、もしかしたら輪島塗等も含め、能登を元に戻す復旧ではなく、別の形を模索する方法しかないのではないだろうか。本当の復興には、金や人数だけではなく、政治や行政の先を見越した戦略が是が非でも必要だと思う。