同朋新聞&行円寺通信2024年05月号 | 行円寺公式ブログ「その名も、行円寺(ぎょうえんじ)」

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同朋新聞&行円寺通信2024年05月号出来ました。

よろしくお願いいたします。

 

《同朋新聞2024年05月号》

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《行円寺通信2024年05月号》

 

東北地区部落差別に学ぶ研修会に参加して


             住職 釋 慈明
 「東北地区部落差別に学ぶ協議会」研修会の一環として2月22日に東北教務所で開催された基礎学習会に引き続き、4月24~25日の2日間にわたる現地学習会にも参加し仙台市内をフィールドワークしてきました。講師は部落解放同盟栃木県連合会執行委員長和田献一さんで、20名ほどの参加者があり車で史跡巡りをしました。
 穢多(えた)非人(ひにん)、といいますと私が小学生の頃に学んだ内容としては次のようなものでした。曰く、「徳川幕府が日本を統一し国内が安定してくると身分の固定化が進んだ。士農工商の順に階層化され、その下に社会不満を紛らわすために穢多(えた)非人と呼ばれる被差別階級があり汚れ仕事を担当した。明治4年に解放令が出されそのような区分けは無くなったが特定の地域・職種に対する差別は現在も続いている」というもので、1972年の教科書に掲載されたそうです。しかしながら現在は「士農工商」という、身分階級としてのシステムは当時も無かったとして教科書から消えて20年以上経つそうです。
 和田先生のお話によりますと、当時の穢多(えた)、非人を理解していく上でカギとなるのは城下町の東西南北にあった「ちまた」のとの事でした。このちまたとは「巷・岐・道股」と書き、道が分かれるところ、村との共同体が終わり異郷に出会う場所、村境にある河原・峠・坂・橋という「現地人が暮らす村と流浪の民(修験者や薬売り、らい病患者、地方から逃れてきた者)とが接触する場所の存在です。仙台は城を中心に城下町があり、そこの結界として東西南北に木戸(きど)という出入口の門がありました。そこが城下に住む定住民と城下外にいる非定住者が接触する場で経済地域であったのだと。そこで市が立ち、修験者が薬を、農家が野菜を、漁師が魚を売り、また近くの神社を会場に見世物などをしていました。その興行権を握っていたのが城下外に定住者していた穢多と呼ばれる人々です。免税地とされた河原に居住し、掃除や葬送、芸能やその興行、斃牛馬(へいぎゅうば)の処理や皮革の生産のみならず、染色業、作庭や井戸掘りなどの土木工事など、賤業とみなされたさまざまな雑業に従事していました。しかしその存在は私たちがイメージしているような「最下層の者」というものではありません。皮は武具等に必要なためその技術は戦国武将にも重宝されていました。そのため太閤検地では、「穢多」は「かわた」などの名称で把握されることになります。「かわた」とは「皮田・皮多」などとも記され、もとは皮革生産を担う職人や商人のことをさしました。それは必要不可欠な産業としてあり、諸権利を所有していたのでした。
仙台伊達藩時代には飢饉や疫病が蔓延した年がありますが、中でも激甚であったのが天明3年(1783年)秋から翌年の秋までに発生した大飢饉と疫病です。資料によりますと14~15万が餓死、天明4年から発生した疫病では領内で30万人が死亡したと言われています(源意成「飢饉録」)。この飢饉時に多くの領民が土地を捨て城下町に助けを求めましたが木戸で止められる。そうするうちに死体がどんどん増え積みあがっていったのですが、その死体処理(埋葬・火葬)を行ったのが木戸の外にいるえた非人の方々でした。そしてその亡くなった方々を供養(追悼法要)するために建てられたのが「叢塚(くさむらづか)」と書かれた石碑で、これは現在仙台では4ケ寺にあるそうです。
また「穢(ケガレ)が多い」と書いて穢多(えた)と呼ばれる皮革職業ですが、江戸時代に「エタ」と呼ばれるのが一般的になります。しかしその差別的響きから幕末にはその賎称をやめるよう各地から請願が出されます。その後江戸幕府は消滅、明治政府が誕生し明治4年にエタ等の名称や身分制度を廃する解放令が出て表面上は賤称としてのエタは無くなりました。しかしこの解放令は国民の納税を確実にするのが目的で、修験者や虚無僧など土地に縛られず移動する生活を禁止しましたし、当時のエタと呼ばれた方々の屋敷土地等の免税も廃され、またそれまで握っていた修験者たちによる商売・興行等を認める権利も取り上げられたため皮革業しかできなくなり一気に落ちぶれ、それが現在、私達が同和地区に対し抱いているようなイメージとなった、との事でした。
自分が同和問題について抱いていたイメージは赤い鳥の「竹田の子守歌」がBGMに流れるような裏寂しいものでしたが、歴史におけるエタ・非人は社会と密接に結びつき、社会のインフラ整備や衛生管理、芸能等を担われていた大切な存在であったのでした。充実した2日間でした。

 

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