《同朋新聞》
https://www.higashihonganji.or.jp/assets/pdf/doboshimbun/dobo2024_4.pdf
《行円寺通信》
東日本大震災被災地めぐり
住職 釋 慈明
さる3月26、27日の2日間にわたり開催された東北教区教化委員会社会部門現地学習会~東日本大震災の被災地を巡る~」に御門徒を引率し参加してまいりました。
初日は女川原発原子力PRセンター、石巻震災遺構大川小学校とその隣に新しく作られた大川震災伝承館見学をしました。廃墟と化した旧校舎のひどく傷んだ姿が津波の激しさを如実に物語っていました。隣接する震災伝承館に陳列されていた被害児童の破れた衣服とランドセルと、親御さんがそのご遺体と悲しみの対面をされ、泥のついたランドセルや教科書を何度も洗われてここにあるという説明文を読んだ際には居たたまれない気持ちになりました。
この小学校では当日校長が不在であったため教頭の指示に従い7メートルの高台を目指した児童74名と教師10名が犠牲になり、裏山に逃れた4名は助かりました。このため当時の判断を問う裁判が起こされ、2019(令和元)年、最高裁第1小法廷(山口厚裁判長)は市と県の上告を退ける決定をしました。これにより震災前の学校の防災体制に不備があったとして、市と県に約14億3600万円の支払いを命じた二審・仙台高裁判決が確定しました。
判決理由は「同小の校長らには児童の安全確保のため、地域住民よりもはるかに高いレベルの防災知識や経験が求められる」との指摘でした。市のハザードマップで大川小は当時津波の浸水想定区域外でしたが、校長らは学校の立地などを詳細に検討すれば津波被害を予見できたと裁判所は判断したのです。その上で、校長らは学校の実情に沿って危機管理マニュアルを改訂する義務があったのに怠ったと、また市教委もマニュアルの不備を是正するなどの指導を怠ったとし、賠償額も一審判決から約1千万円増額した判決でした。
大川小学校のすぐ後ろには山があり、そこは子供たちの遊び場でもありました。ここに避難していれば全員助かったのですが、そこに避難せず、逆に北上川近くの新北上大橋を目指したため川を上ってきた津波に飲まれました。
現地散策をし、「何故すぐ近くの裏山に逃げず新北上大橋付近に避難しようとしたのか」と思いましたが、それにも理由があったのだそうです。それは、
① 「大川小学校のあった場所はこれまで津波被害を受けたことが無かったため、そもそも津波想定地域に指定されていなかった。むしろ何かあった場合の《避難先》とされていた」
② 「裏山は土砂災害警戒区域に指定されていたため、大きな地震が起こった後に山に向かうのは危険と判断された」
③ 「新北上大橋方面は学校よりも標高が高く、より安全と考えられた」
という判断があったためとの事でした。
その判断が結果的にあのような悲劇を生んだわけですので、これは先生方の判断ミスというよりも、非常時用に作成された市や県、国の指示マニュアルミスであったのだなと思いました。
津波が引いた後に30名ほどの遺体がまとまって見つかるのですが、仮安置された子供たちの遺体が並んでいる写真を地元の方に見せられた時は心が張り裂ける思いでした。
陸前高田市気仙沼中学校では全員無事であったのに対しこちらはほぼ全滅という事で当時はさんざん批判されました。しかし今になって考えますと引率の先生方も加害者であるどころか当時のマニュアルの被害者であったのだなと思った次第です。翌27日は陸前高田市の真宗大谷派本称寺、東日本津波伝承館などを訪問しました。本称寺は天正年間より続く城郭のような立派なお寺でしたが、梵鐘以外すべて流され現在の住職は先代住職夫妻と坊守さんの3人を亡くされました。お話の途中何度も涙で声を詰まらせていらっしゃいました。
平和に暮らしていた家族が、街が、災害により丸ごと無くなる。かつて賑わいの中心であったところが現在は慰霊塔と更地が広がる風景を見て改めて諸行無常、人生には何一つ保証も担保も無いのに生きているのが当たり前と油断していたわが身の浅はかさに気づかされた次第です。
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