2024年03月09(土)~10日(日)諸勉強会 | 行円寺公式ブログ「その名も、行円寺(ぎょうえんじ)」

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2024年03月09日(土)、六郷浄光寺を会場に第31回真宗講座、翌10日(日)は横手虹のホールアグレムを会場に第18回仏教講座が開催されました。自分は10日の仏教講座に参加しました。

 

講師は北海道教区即信寺重症亀谷亨(かめがいすすむ)住職で「凡夫が歩む仏道」を講題にお話がありました。

 

仏教の目的は「仏」になる事です。仏になるという事は、迷いの源である煩悩(自分中心の欲望)から離れ、学問・修行を尽くし智慧を獲得しそれを他者に分け与えていく存在になる事です。そしてそれを目指す者を菩薩といいます。

しかしながら煩悩は私たち凡夫からは死ぬまで消えない。自分さえよければいいと思いつつも他者からも褒められたいという感情にも生きている。

 

真宗の救いは、そのような私たちが「念仏の信心により煩悩の身のまま救われる」ことである。

 

仏の本願力により、人間関係や救済の迷い、様々な迷いの根本である生死(しょうじ)の迷いを出づるのである。

 

仏教では迷いの事を「生死(しょうじ)」といいます。一般的社会では生死(せいし)と読まれていますが、どう読むかで意味が異なります。

生死(せいし)と読むと、それは「生きる事と死ぬ事」の二つの概念を表します。本来不可分である生(生まれ・生きる)と死(死ぬ・消滅する)を別々の概念として捉え、私たちは自分達にとって都合のいい方(生)を増やそう・伸ばそうとする価値観です。

 

その中で生まれてくるのが「家内安全・商売繁盛・厄除け災難」という願いでしょう。これは基本的に、世界全体がと祈るよりも「自分にとって都合のいい状況になってほしい」と自己の安全・利益を求めるものです。

 

いのちを生と死の概念に分け、自分にとって都合のいい方を伸ばそうとするその思考、これが煩悩です。

 

「長生きはしたいが、年は取りたくない」的な。

 

生死(しょうじ)とは「生と死は紙の裏表のようなもので一体なのだ。死を背負っていない生は無い」という考え方です。

 

「長生きする事は老いる事」です。逃れようがないでしょ?

 

悟りの智慧が完成するには煩悩を消さねばなりませんが、煩悩は修行で消えるものではありません。身を持つ以上、食う事寝る場所生きる事等の不安は消えません。我々に煩悩があるのではなく、煩悩が我々なのですから。ここに自力修行の限界があります。

 

私たちは阿弥陀仏に「迷いの衆生よ、念仏申せ」と仏に見出された「迷いの存在」として、阿弥陀仏に導かれて生きるのです。

 

南無阿弥陀仏という仏の願いを以て私たちに働く力は、これまで自分の価値観・都合で生きてきた私たちに、これまでの人生は本当は「ごめんなさい」「ありがとう」の連続であった事を気づかしめます。

 

それは自分のいのちも他人のいのちも軽い存在とみてはいけないという促しです。

 

そのような自分の普段の思いに働きかける「他」なる「力(はたらき)」、これを他力といいます。

 

私たちは普段「知識や経験を積み重ね、ブレない自分になり諸問題と向き合い、解決する」ことを願いとして生きていますが、

「物事を判断する自分の物差しはどれだけ正しいのですか」と問うてくださる働きを他力、如来の本願力というのです。

 

迷わない人間になるのではなく深い迷いの身に目覚める事、これを「往生」といいます。仏智により悟りの世界からわが身を見ることができるので、往生(浄土に往って生まれた)。私たちが完璧に往生を遂げるのは死後ですが、往生の世界をこの娑婆にて頂けるのです。

 

なかなか濃い時間でした。

 

 

 

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※真宗大谷派行円寺は高森顕徹や一万年堂出版、「親鸞会」とは一切関係ありません