まず自由が少なかった。
学校では校庭に並べられ立たされ興味のかけらもない話をされたかと思った次の瞬間には、固い椅子にすわらされ信じられないぐらい長い間座って授業を聞かなければいけないし、それが終わったかと思えばヘルメットつけて自転車にのらされたり、ごみをひろわされたりしてるにもかかわらず、遊ぶ時間は制限があった。
それに比べれば今はやることさえやっていれば、行動の制限を受けることは激減したし、楽だ。
子供のころはよかったなぁと言ってる人は、実質以上に過去を美化して楽しかった思い出以外を本能的な脳の作用で消し去っているだけじゃないかと思う。
子供のころのさらなる不幸は大人の理不尽である。大人が子供を叱ることや教育が必要であることに異論はないが、その内容が理不尽な場合があり、子供にはそれに対向する力も知恵もないことが通常であるため、家庭内の不条理は誰に指摘されることなく横行しており、子供にとっては耳障りなノイズとしてストレスに直接変換されている。
これは先日耳にしたおばあちゃんと孫の会話である。
孫がおばあちゃんから150円受け取り、100円のジュースを買い、おばあちゃんに50円返せといわれるところから始まる。
孫はもちろん50円欲しいわけだから返すのを渋るが、おばあちゃんは厳しい目つきで孫を見つめ、手の中の硬化を出せと言う。子供はその鋭い眼光に怯み、しぶしぶ手を広げる。おばあちゃんは小さな手の平の上の50円硬化をつまみ、引き上げようとした時、未練を捨てきれない孫も50円の反対側をつまみながらおばあちゃんに反抗を見せる。
おばあちゃんはよりいっそう激しい声色で、お金のことはきちんとしなあかん、といった持論とも一般論ともとれる主張で50円のはしっこひっぱるが、孫は孫で、おばあちゃんは大人やん、といった興味深い主張でひっぱり返す。
この綱引き合戦は、いうまでもなくおばあちゃんに軍配が上がったわけだが、その理由は主張が正当であったためではなく、大人と子供という力の差、ジュースを買ってもらったという子供側の心理的な恩義。そして今後の生活を送る上でこの老婆の機嫌を損ねすぎるのは得策ではないという子供側のバランス感覚による和解にも似た決着であろう。
ここで、この子供の主張が興味深いのには、理由がある。それは、おばあちゃんは大人やん、の一言にいくつかの意味がかくされているからである。
大人であることが、50円を拝借する理由になりえるのだろうか。おそらく子供側のロジックはこういったものではないだろうか。
金銭面に関して、適切に貸し借りしなければいけないことに反論の余地はない。私もそのことはもちろん承知しているから、それに対して反論はない。しかしこれは身内でのやりとりであり、必ずしもその規則があてはまる場面ではない。あなたは大人なのだから、あなたの裁量で金銭の授与が可能ではないのか?
さらにこう言うだろう。あなたは大人で十分な財力があるはずだ。かたや私は50円すら貴重な金であり、あなた以上にその価値を高く評価している。あなたの50円と私の50円では重みが違うのだ。そして老人は金を蓄えすぎだから、再配分に協力すべきだ。と。
おばあちゃんの使いふるされた柔軟性のない一般論より、子供の主張に共感できる。子供は清濁合わせ飲んだ、ひとつ高い視点から提案し、かつ社会問題にまでふみこんでいるが、結果はおばあちゃんの大人のパワーを無自覚に乱用した無双であり、子供にとっての無理げーである。子供のころはよくなかったなぁ。
