5月21日
『看病の日』
ナイチンゲールの誕生日であるこの日、1991年に厚生省健康政策局看護課などが、制定しました。
「わざわざごめん」
「お前、悪いことをしたわけではないんだからさ」
「あア。そうだな、気持ちまで弱ってしまったみたいだ。ありがとうが正解か。ありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
礼に応えながら、男は持参した袋を二つ差し出した。それを受け取った男は袋の中を覗きながら痰の絡んだ咳をした。
「こっちはケーキね、なるたけ日が持ちそうなやつを店員さんに選んでもらったから。食欲出た時に食べてくれ」男はもう一つの袋を指差した。「そっちはポカリとか栄養ドリンク」
「こんなにたくさん。悪いな」
「だからさア」
「そうだな、そうだった。ありがとう」
男は黙って強く頷くと、所在なさげにマンションの廊下を一度見回してから、それじゃ、と言って踵を返した。風邪を引いた男は、玄関の扉を大きく開けた。
「上がってけよ、茶くらい出させろよ」
「いいよ。病人は寝てろ」
「寝てばかりでどうにも毎日味気ないんだ」
それを聞いて男は、少し考えてから言った。
「あ、そう。じゃあ、少しだけ話し相手になってやるか。うつすなよ」
風邪を引いた男は散らかっていた部屋の荷物を隅に押しやってから、男を招き入れた。雑に置かれたスニーカーの中に自分の靴の居場所をようやく確保すると、男は部屋に上がった。
「へエ、男の一人暮らしって感じだね」
「それは、うぶな自分を演出したい、もしくは本当にうぶな女だけが口にしていいセリフだ。同じく一人暮らしをしている男が言うセリフじゃない」
風邪を引いた男は、お見舞いにもらったケーキを冷蔵庫にしまいながら言った。
「あ」適当な場所であぐらをかいた男が目の前に置いてあるDVDを手に取った。「これ、全米が沸き過ぎて日本でも話題になったやつ?」
「そうそう」
「もうDVD出てたんだ?」
「ん、観る?」
「え、じゃアお言葉に甘えようかしら」
風邪を引いた男が、もちろん、と頷くと、男は嬉しそうにDVDをデッキにセットした。
ダイナミックな演出のオープニングに、はじめは談笑しながら鑑賞していた二人であったが、程なくして二人とも画面に夢中になった。
皿とナイフが立てる音と、ゆったり進む会話。映画は、主人公が姿を偽って敵のアジトに潜り込み、何気ない顔をしながら敵の親玉と食事をする緊張感のあるシーンだった。長いカットに固唾を飲む男の隣で、風邪を引いた男はそっと横になった。
「大丈夫か?」男が訊いた。
「少しだけ熱が上がってきたかも」風邪を引いた男が答えた。
「そろそろ寝たらどうだ?」
「いや、そんな大袈裟なもんじゃない」
二人はまた、しばらく映画に没頭した。
スピード感のある展開はニ時間弱の映画をすこしも長く感じさせなかった。主人公は画面の中で、実は黒幕だったということがいよいよ明らかになった、かつての同士であった男と対峙している。恋人の死の真相を明かされ怒りに打ち震える主人公。物語はいよいよクライマックスに差し掛かろうとしていた。
風邪を引いた男は立て続けにくしゃみをした。映画に夢中になっていたのでなかなか気付かなかったが、背中を中心に走る悪寒が先程より随分酷くなっていた。
「すまん。こんなタイミングで大変申し訳ないんだが、買ってきてくれたポカリ、とってくれないか」
「うん」
「頼む、ちょっとしんどくなってきて」
「ちょっと、待って、ね」
「うん」風邪を引いた男はしばらく待ったが、なかなか画面から目を離せないでいる男を見て言った。「いや。大丈夫だ。自分でやる」
上半身をゆっくり起こすと、その傍らで男は画面を見つめたまま、わりイ、とだけ言った。なんとか立ち上がって冷蔵庫に向かって少し歩くと、思っていた以上に上がっていた熱に、風邪を引いた男はその場にへたり込んでしまった。節々が錆び付いたように軋み、目の前がぐるぐる回っている。
画面の中で繰り広げられる大立ち回りを、一瞬たりとも見逃すまいと前のめりになってテレビに齧り付いている男に向かって言った。
「なア。こんなタイミングで、本当に申し訳ないんだが、熱がなかなかやばいことになってきた。駅からうちに来る途中に薬局があったろ? あそこで解熱剤を買ってきてくれないか」
「うん」
「頼む、だいぶしんどくなってきて」
「ちょっと、待って、ね」
「うん」風邪を引いた男は自分の息がどんどん荒くなっていくのを実感していた。頬が燃えるように熱く、頭がとにかく重かった。しかしその時、熱が上がってゆくのに比例して、映画も盛り上がりを見せていた。黒幕の男が密かに隠し持っていた小型の銃は今、主人公のこめかみに突きつけられていた。指先に少しでも力を込めれば、呆気なく全てが終わる。主人公は諦めるように、薄く開いていたその目をゆっくり閉じていった。
風邪を引いた男はもちろんこの話の結末を知ってる。黒幕の男の真の目的は、主人公を殺すことではなく、主人公を守ることにある。つまり同士は、黒幕を演じることで敵の親玉、そして主人公をも欺き、秘密裏に主人公をサポートしていたのだ。しかし、主人公がその真実に気が付くのは、必死で黒幕を演じる同士の銃を奪い、その胸を撃ち抜いた後になる。そして、もっと絶望的なことに、その本当のクライマックスのシーンに至るまで後30分以上はあった。風邪を引いた男は力を振り絞って言った。
「いや。大丈夫だ。自分で行く」
なんとかゆっくり立ち上がり、上着を羽織る。その傍らで男は絶対絶命のシーンに口を固く結んでいた。風邪を引いた男がふらつきながら玄関の扉に手をかけると、背後から男の声が聞こえた。
「おい」
「なに」
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないんだ」
「そうか。あのさ」
「ん」
「帰りに、あの、タバコ、頼む」
その場でフラフラ立ち尽くしている風邪を引いた男に向かって、男は感情の欠けた声で続けた。「ごめん」
「いや、あの、もう、なんと言うか」
風邪を引いた男はそれだけ言うと、続ける言葉を見つけられず、話すことを諦めた。満身創痍で扉を開けると、その背中に向かって、男が思い出したように声を掛けた。
「違う!」
「何が、だ」
風邪を引いた男が訊くと、男は目を画面に置いたまま、顔だけをこちらに向けて言った。
「ありがとう、だな」
「いや」風邪を引いた男は閉まりゆく扉の隙間に向かって言った。「ごめん、でいい」
これから真実に気が付くことになる主人公の手の中で、同士から必死で奪った銃が、画面いっぱいに火を吹いた。