4歳女児が絶叫「おねがい、もうやめて!」閉め切られた父の部屋で、首を絞められ息ができず…虐待サバイバーの作家が告白する「壮絶すぎる体験」
※本記事には児童虐待の実体験を含む表現がございます。閲覧にはご注意ください。
「児童虐待」は平成以降、増加の一途をたどっている。
厚生労働省の調べによると、全国の児童相談所に寄せられた虐待の相談件数(指導・措置などの対応をしたもの)は、1990年には全国でわずか1100件ほどだったが、1999年に1万件、2010年に5万件、2015年には10万件を突破。少子化の時代にもかかわらず、2022年には21万件を超えており、じつに32年間でおよそ200倍まで増えたことになる。
2022年には、虐待の内訳は「心理的虐待」が最多となる12万9484件。続いて「身体的虐待」が5万1679件、「ネグレクト」が3万556件、さらに「性的虐待」が2451件発生していた。
ノンフィクション作家の菅野久美子さんも、そうした虐待を受けた子供のひとりだった。主に母親から壮絶な身体的・精神的虐待を受けていた菅野さんは、今なお残るその生々しい記憶を、著書『母を捨てる』に記して上梓した。
同書から、あまりにも壮絶な菅野さんの体験、そして大人になった菅野さんが、いかにして「母を捨てる」に至ったかをご紹介しよう。
※本記事は『母を捨てる』(プレジデント社)から抜粋・編集したものです。
閉め切られた父の部屋で
私が物心ついたとき、それははじめて自分の体と心を認識したときだった。母の胎内から出てきて、まだたった四年ほどしか経っていない、幼稚園児の頃である。私と母との関係は、ここからはじまった。私の一番古い記憶だ。
今も頭に焼きついて離れないのは、西側の窓からサンサンとさし込む太陽の光だ。それは、まばゆいばかりの光で、私と母をいつだって照らしていた。
母と一緒に幼稚園から自宅に帰った私は、黄色の斜めがけバッグを下ろし、紺のベレー帽を脱ぐ。すると、先生やお友だちに見せていた母の満面の笑みが、たちまち鬼のような形相に変化していくのであった。その途端、私の全身が恐怖ですくむ。
「こっちにきなさい!」
母は、私の小さな腕をつかんで、強引に廊下の奥にある部屋に引きずっていく。
そこは六畳一間の父の仕事部屋だった。窓は完全に閉め切られている。それでもカーテンはいつも開いていて、畳は一部だけすすけて黄金色に日焼けしていた。かすかだが、父のつんとした整髪料の匂いが鼻をつく。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab5878fed0f28be77afcd5cb93b0c89aa12f0599
「今日は虐待が起こる日だ」
部屋の左側には、こたつと座椅子があって、その上にはピンクや黄色など色とりどりの蛍光ペンや色鉛筆、書類が無造作に並んでいた。小学校の教師である父はよく、休日や夕食後はこの部屋にこもっていた。そして、机の上のペンを手に取り、テストの採点や添削に没頭していた。当然ながら平日の昼間にそんな父の姿はない。
母の虐待は、晴れた日の午後で、場所は父の仕事部屋と決まっていた。虐待の理由は、「忘れ物をしたから」「服を汚したから」などだった気がする。しかし、今思うとそれはこじつけに過ぎなかったと思う。
帰宅するなり、私は母から「今日は虐待が起こる日だ」というオーラを嗅ぎ取り、恐怖心でブルブルと震えた。要するに、母の機嫌がすこぶる悪い日というわけだ。朝は笑顔で幼稚園に送り出しても、帰宅すると別の顔を見せることもあった。だから、母の虐待はすべてが予測不能だった。
部屋は鮮やかな光に包まれていた。まだ光が見えているうちは、希望があった。ささやかな希望が――。
「いきができないよ!」
目を覆われていないうちは、まだ「苦しくない」。まだ、「大丈夫」。あの「苦しい」時間を、一分一秒でも先延ばしにできる。小さな私の心は、そうして必死に私自身を勇気づけていた。母に激しく罵倒され、次に起こることにおびえながら、それでも私は、「あの光」を追わずにはいられなかった。なぜなら、あれは私に残された最後の安心だったから。
母が押し入れを開け放ち、ポリエステルの毛布を乱暴に取り出す。ドサッという音。毛布の細かな繊維質が、何百、いや何千と、ふわふわと空中を飛び交っているのが目に入る。白と黄色が混じり合った西日に照らされて、それはあまりに美しく、自由に浮遊していた。
次の瞬間、私の視界は、漆黒の闇に覆われる。父の書斎の道具が残像となり、突然かたちを失っていく。これまで部屋中にさしていた光が失われる。目の前は真っ暗で何も見えない闇の世界へと反転する。
それと同時に、私の中にあった最後の希望はプツリと消える。母が私にかぶせた毛布の上から首を絞めつけてきたからだ。同時に息ができなくなる。顔中を覆うモコモコした毛布が、口に入ってきて吐きそうになる。
「くるしい、いきができないよ!」
「お母さん、ごめんなさい! ごめんなさい! だからゆるして!」
あまりに非力すぎた
私は、毛布の下で叫ぶ。絶叫する。しかしいくら泣いても暴れても、誰にも届かない。届いたところで、この力がゆるまないのは、これまでの経験から痛いほどによくわかっている。その声は厚い毛布に阻まれ、母の暴力の前で四歳児である私は、あまりに非力すぎた。
だから私に今できるのは、小さな口と鼻で、必死に息継ぎをすることだけだ。ただただ、呼吸を浅くすることだけ。
「ハーハー、ハーハー」
息苦しさのあまり、ボロボロと涙と鼻水が出てくる。涙の粒は顔面を伝って、毛布を濡らす。毛布は流れ出た水分を含み、さらに呼吸を苦しくする。涙を吸い込み、ベチョベチョに濡れた毛布は、巨大な怪物のように私にのしかかってくる。
まだこの世に生を受けてたった四年――。か弱い四歳児の私は、母の強大な力を前に、なすすべがない。母の強大な力に、ただただ翻弄されるしかない。
「お母さん、たすけて!」
苦しさのあまり、毛布の隙間から声を上げると、「ゲホゲホゲホゲホ」と嗚咽し、咳込んでしまう。どうやら、毛布の繊維を喉の奥に深く吸い込んでしまったようだ。
「生まなきゃよかった」
いつしか意識が遠のき、呼吸がゼーゼーと浅くなる。酸素と二酸化炭素の交換がうまくいかなくなってくる。それでも私の小さな肺はギリギリのところで、耐えようとする。生きようとする。血管から血管へと流れる酸素を循環できない、断末魔の苦しみ。
私の首を絞めつける母の巨大な手は、その圧をじわじわと増し、ギリギリのところまで私を絞め上げる。そうして小さな私の呼吸を、極限まで追い込んでいく。
「お母さん、くるしいよ。おねがい、もうやめて! ごめんなさい、ごめんなさい」
「あんたなんか、生まなきゃよかった」
母の吐き捨てるような言葉が、毛布越しに私の耳にも聞こえた。だけど、だからといって、どうすればいいのかわからなかった。
母は、私にありとあらゆる虐待をしてきたが、こうして私の呼吸を奪うことが多かった。そして、私にとって一番の恐怖は、お尻を叩かれることでも、ビンタされることでもなかった。そんなことは、一瞬の痛みに過ぎない。
一番の恐怖は、こうやって呼吸をじわじわと、いつ奪われるかもしれないことなのだ。
母が、呼吸を奪う虐待を頻繁に繰り返した理由――。それは、今考えてみれば、母が近隣住民に知れ渡ることを、何よりも恐れたからだろう。
大人と子供という圧倒的な力の差の前に、虐待されている児童は周囲に助けを求めることも、声を上げることもできない。そうした中で幼い菅野さんは、自らの「死」について意識するようになっていったという。大人になった菅野さんは、当時の体験とどのように折り合いを付けたのだろうか。【「いたい、くるしい」「もう楽になりたい」4歳女児が母親からの「虐待の日々」で悟った「魂の殺人」…その恐ろしすぎる無限ループ】でひきつづきお伝えする。
菅野 久美子(ノンフィクション作家)
菅野久美子(かんの くみこ、1982年 - )は、日本のノンフィクション作家。 菅野 久美子かんの くみこ. 誕生, 1982年(41 - 42歳) 日本の旗 日本・宮崎県. 職業, 作家.
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