(承前)
パラリンピックボランティアに応募したものの、いつもながら予習が不完全な私。
報道されるパラリンピアンの方々を拝見するにつけ、ほんまもんの「超人」としか見えないので、こんな風に考えていました…。
「もともと運動神経が抜群で、障がいを負われる前からスポーツをしていた」
「ハンディキャップが生じてからもそのスポーツをあきらめず、精進してきた」
上記はあさはかな、私のイメージです。(ファクトといろいろ違っていると思います。本当に申し訳ありません)
しかしながら、この機会を得てあたらめていろいろな方々のデータを拝見しました。そうして知ったのは。
「障がいを負ってから、この競技をはじめた」
「スポーツに打ち込んでいるときは、ストレスから解き放たれる」
そうか、そうなんだ。
彼ら彼女らにとって、スポーツは、生きていくために必要なのだ。
人に見せるためでも、順位を取るためでもない。
生きていくことそのものなんだ。
そう(私の中で)見方が変わった瞬間から、周りの景色が音をたてて変わりました。
生きるために、泳ぐ。
この人たちこそ、真の勇者ではないのか。
ひとはみな、それぞれにトラブルを抱えているけれど、大きな重荷を背負っても高みを目指して達成している人たちが、ここにいる。
この人たちを応援しなくて、誰をしろというのだろう。
彼ら彼女らは、人類が達すべき境地にいち早くたどり着いている、勇気ある先達なのだ。
私は彼らの勇気を目の当たりにするたび、涙が噴き出すのを抑えられませんでした。(本当にマスク時代でよかったよ…涙を隠せる…)
私が「おめでとう!」と声をかけると「ARIGATOGOZAIMASU」と返してくれる選手。
礼儀正しく「ご質問ありがとうございます」と前置きしてから取材に応じる選手。
お洒落を楽しんで、美しく長い髪をなびかせている女子選手。
にんげんとしてうつくしく、偉大だと思った。
そしてこの人たちを、普通に迎えることのできる世界を、私たちは作らねばならないのだ。
私がこんな特別な場で泣くなんて、まだまだ駄目。
レストランに隣に彼女が座って、これが美味しいよ?と指させる、そんな世界。
「宝塚って見てみたいんだけど、どうしたらいいの?」と言われて、「今度チケット取るから一緒に行こうよ!隣で見ようね」と応えられる、そんな日。(うるさく教えすぎて嫌がられないよう注意だけど)
遠い日かもしれないけど、そんな日。それが私たち人類が、一段上がる日だ。
この時代に開催されるイベントとしては、オリンピックよりもパラリンピックが、より相応しかったかもしれない。
続けます。