生きるために、泳ぐ。東京パラリンピック② | Gwenhwyval(グウェンフウィファル)の舞台日記

Gwenhwyval(グウェンフウィファル)の舞台日記

鑑賞は生中心主義。自分の眼でライブで見たことを中心に、語ろうと思います。

(承前)

 

パラリンピックボランティアに応募したものの、いつもながら予習が不完全な私。

報道されるパラリンピアンの方々を拝見するにつけ、ほんまもんの「超人」としか見えないので、こんな風に考えていました…。

 

「もともと運動神経が抜群で、障がいを負われる前からスポーツをしていた」

「ハンディキャップが生じてからもそのスポーツをあきらめず、精進してきた」

 

上記はあさはかな、私のイメージです。(ファクトといろいろ違っていると思います。本当に申し訳ありません)

しかしながら、この機会を得てあたらめていろいろな方々のデータを拝見しました。そうして知ったのは。

 

「障がいを負ってから、この競技をはじめた」

「スポーツに打ち込んでいるときは、ストレスから解き放たれる」

 

そうか、そうなんだ。

彼ら彼女らにとって、スポーツは、生きていくために必要なのだ。

 

人に見せるためでも、順位を取るためでもない。

生きていくことそのものなんだ。

そう(私の中で)見方が変わった瞬間から、周りの景色が音をたてて変わりました。

 

生きるために、泳ぐ。

 

この人たちこそ、真の勇者ではないのか。

 

ひとはみな、それぞれにトラブルを抱えているけれど、大きな重荷を背負っても高みを目指して達成している人たちが、ここにいる。

この人たちを応援しなくて、誰をしろというのだろう。

彼ら彼女らは、人類が達すべき境地にいち早くたどり着いている、勇気ある先達なのだ。

 

私は彼らの勇気を目の当たりにするたび、涙が噴き出すのを抑えられませんでした。(本当にマスク時代でよかったよ…涙を隠せる…)

私が「おめでとう!」と声をかけると「ARIGATOGOZAIMASU」と返してくれる選手。

礼儀正しく「ご質問ありがとうございます」と前置きしてから取材に応じる選手。

お洒落を楽しんで、美しく長い髪をなびかせている女子選手。

 

にんげんとしてうつくしく、偉大だと思った。

そしてこの人たちを、普通に迎えることのできる世界を、私たちは作らねばならないのだ。

私がこんな特別な場で泣くなんて、まだまだ駄目。

レストランに隣に彼女が座って、これが美味しいよ?と指させる、そんな世界。

「宝塚って見てみたいんだけど、どうしたらいいの?」と言われて、「今度チケット取るから一緒に行こうよ!隣で見ようね」と応えられる、そんな日。(うるさく教えすぎて嫌がられないよう注意だけど)

 

遠い日かもしれないけど、そんな日。それが私たち人類が、一段上がる日だ。

この時代に開催されるイベントとしては、オリンピックよりもパラリンピックが、より相応しかったかもしれない。

 

続けます。