あるとき、窓枠にゴキブリの糞らしきものが散らばっているのに気づきました。正直なところ、まだ今のアパートの全体像を把握できておらず、どこから侵入しうるのか、どこに潜んでいる可能性があるのかもよくわからず、戦々恐々としておりました。すると昨晩、部屋の隅でカサカサと動く黒い影が!慌てて退治しましたが、成虫に比べるとサイズが小さめで、もしかして大きなコロニーがあったら…と思い、枕を高くして眠れませんでした。
しかし今朝、明るくなってから改めて確認してみると、退治したのはゴキブリではなく小さめのザムザでした。昨日の昼は窓を開けて換気をしていたので、きっとそのときに迷い込んだのでしょう。しかしそうだとすると、窓枠の糞の主はいったいどこに…喜べばよいのか、未だ危機は続いているのか、判断に迷うところです。
それはそれとして、昨日の話の続き。そういえば、趣味と言える程のものでもない習慣に、本の購入・読書というものがあったことを思い出した。特に、各社の新書や、O'REILLY社の/theory/in/practice系の本を読むのがかなり好き。毎日の生活の中で、少し複雑な問題が出てきたときは、大概この辺りの本を読むことでヒントを得てきた気がする。また、そういう場合でなくても、単純に色々な視点や考え方を知りたい、という感覚で、色々読んできたように思う。
また最近では、何篇か「物語」にも手を出すようになってきた。もともとファンタジー系が好きだったので、最初は村上春樹をまとめて読んだ。とくに「世界の終わりと~」とか「ねじまき鳥クロニクル」、「1Q84」のような、比較的重層的になっていて、現実離れしたタイプのほうが気に入った。今後は少し趣向を変えて、藤沢周平を読んでいこうと思っている。最初に「蝉しぐれ」を読んでみてテイストが気に入り、そのあと読んでいる短編集(「隠し剣」シリーズ)も悪くない。どのへんが気に入っているのか、ということについてはまた別の機会にまとめるとして、こういう「舞台設定が少し現実離れした」タイプの本なら、面白く読み進められるのかもしれない。
そういう意味で、「読書サークル」みたいなのがあるとよいなあ、とは思う。booklog.jpのようなものではなく、もう少しリアルで会話できるような…まあそうすると、パーティーなどで好きそうな人を探す、という(じゃっかんハードルが高い)方向のほうがよいのかもしれない。あとこちらだと、洋書を読んだ方がよいのかもしれない…
今日の昼はオムレツとソーセージです。やっぱりソーセージがおいしい。オムレツも、そこそこうまくできてよかったです。正味200円程度で得られる満足。
Facebookを眺めていて思うのは、なんとなく他の人と自分との間に大きな隔たりを感じる、ということ。なんというか、そこにあるノリについていけない、共感できない、ということがよくある。その一方で、自分もその輪の中に入れたらよいのに、という憧れはなくならない。結局、寂しさを抱えながら、指をくわえて投稿を眺めるだけ、ということになる。自分のことを本当の意味で「友人」と思っている人はいないのではないか、という感覚になってくる。
「友人」とはいったいなんなのだろう?個人的な意見では、一番重要なのは「共感」あるいは「仲間意識」といったものなのだと思う。話していて、考え方だとか感じ方、抱えている問題とか興味を持っていること、そういうことが一致する瞬間は、とても嬉しい。そういうときに、自分は相手のことをすごく近くに感じる。ゼミやサークルでの友人が長続きするのも、同じような経験を経ていて、価値観が似ているせいなのだと思う。逆に、目の前の人がなぜこの話題で盛り上がるのかわからないと、とても寂しく感じる。
そう考えてくると、「共感を得やすい環境を作る」ということが、相手との距離を縮める際にとても重要なのだろう、ということになる。例えば自分の興味の幅を拡げて、いろいろなことに対する「こだわり」を持てるようにするだとか、興味のあることについて自分が感じたこと、考えたことを発信するだとか、そういうことが重要なのかもしれない。
そこで「語れるもの」として登場するのが趣味、なのだけれど…。今の自分には、人に発信できたり語れたりする趣味はないような気がする。どうも、気になるものがあっても、なかなかそちらに一歩踏み出すことができない。色々なことをやってみた(みようとした)けれど、どうも浅いところで終わってしまっているように感じる。飽きっぽいだけなのかもしれないし、面白さがよくわからないのかもしれないし、他のことを忘れて夢中になれないだけなのかもしれない。なんとも悲しいことだけれど、確かに自分は「つまらない」。
強いて言うなら、自分がずっとこだわっているものは、「何かを作ること、表現すること」だと思う。しかしそこには(まだ?)、他の人が作ったものは介在していない…なんと自己中心的な…。もしかすると、他の人の世界や作品、与えてくれるものに対する敬意が、もっと必要なのかもしれない。(そういう意味では、今一番「趣味」に近いのは、今の仕事かもしれない。他の人の仕事に対する敬意もあるし、自分なりのこだわりもある。確かに、それについて他の人と話していると楽しい…が…)
まあせっかく時間的にも経済的にも余裕が出てきているし、自分の世界を拡げる趣味を見つけてみたいものです。何か人に発信できるようなものが見つかるといいなあ。
Facebookを眺めていて思うのは、なんとなく他の人と自分との間に大きな隔たりを感じる、ということ。なんというか、そこにあるノリについていけない、共感できない、ということがよくある。その一方で、自分もその輪の中に入れたらよいのに、という憧れはなくならない。結局、寂しさを抱えながら、指をくわえて投稿を眺めるだけ、ということになる。自分のことを本当の意味で「友人」と思っている人はいないのではないか、という感覚になってくる。
「友人」とはいったいなんなのだろう?個人的な意見では、一番重要なのは「共感」あるいは「仲間意識」といったものなのだと思う。話していて、考え方だとか感じ方、抱えている問題とか興味を持っていること、そういうことが一致する瞬間は、とても嬉しい。そういうときに、自分は相手のことをすごく近くに感じる。ゼミやサークルでの友人が長続きするのも、同じような経験を経ていて、価値観が似ているせいなのだと思う。逆に、目の前の人がなぜこの話題で盛り上がるのかわからないと、とても寂しく感じる。
そう考えてくると、「共感を得やすい環境を作る」ということが、相手との距離を縮める際にとても重要なのだろう、ということになる。例えば自分の興味の幅を拡げて、いろいろなことに対する「こだわり」を持てるようにするだとか、興味のあることについて自分が感じたこと、考えたことを発信するだとか、そういうことが重要なのかもしれない。
そこで「語れるもの」として登場するのが趣味、なのだけれど…。今の自分には、人に発信できたり語れたりする趣味はないような気がする。どうも、気になるものがあっても、なかなかそちらに一歩踏み出すことができない。色々なことをやってみた(みようとした)けれど、どうも浅いところで終わってしまっているように感じる。飽きっぽいだけなのかもしれないし、面白さがよくわからないのかもしれないし、他のことを忘れて夢中になれないだけなのかもしれない。なんとも悲しいことだけれど、確かに自分は「つまらない」。
強いて言うなら、自分がずっとこだわっているものは、「何かを作ること、表現すること」だと思う。しかしそこには(まだ?)、他の人が作ったものは介在していない…なんと自己中心的な…。もしかすると、他の人の世界や作品、与えてくれるものに対する敬意が、もっと必要なのかもしれない。(そういう意味では、今一番「趣味」に近いのは、今の仕事かもしれない。他の人の仕事に対する敬意もあるし、自分なりのこだわりもある。確かに、それについて他の人と話していると楽しい…が…)
まあせっかく時間的にも経済的にも余裕が出てきているし、自分の世界を拡げる趣味を見つけてみたいものです。何か人に発信できるようなものが見つかるといいなあ。