雑話140「マティス:生みの苦しみ」 | 絵画BLOG-フランス印象派 知得雑話

雑話140「マティス:生みの苦しみ」

マネや印象派、ゴッホやセザンヌなど、芸術に革新をもたらそうとした芸術家たちは、いずれも大変な苦労をしながらも、自らが信じる芸術をひたすら実践し続けました。


しかし、フォーヴィスムの主要メンバーで、ピカソと並び20世紀最大の画家と評されるマティスほど、大変な苦悩を経験した芸術家はいないのではないでしょうか?


アンリ・マティスはドランやヴラマンクらとともに、1905年のサロン・ドートンヌで、チューブから出した絵具をそのまま使うという前代未聞の作品を発表して、衝撃的なデビューを果たしました。


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アンリ・マティス「帽子をかぶった女」1905年

※マティスの妻を描いた作品、展覧会に出展されるや否や世間の嘲笑や批難の的となりました

その後は少数ではあるが熱心な愛好家を獲得し、作品も少しずつ売れ出しましたが、相変わらず作品に対する理解が進むことはありませんでした。


そんな中で、マティスは彼のパトロンとなったシチューキンから、「食卓」「ダンス」「音楽」という3点の大作の注文を受けました。


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アンリ・マティス「食卓-赤い調和」1908年

※批評家たちはこの絵を非常識で恥知らずで、幼稚で、奇怪なものとみなしましたが、マティスはこの作品で「均衡と純粋さと静謐の芸術、心を乱し、不安にさせる要素とは無縁の芸術」の実現を目指したのでした

シチューキンは、当時親しい友人にすら理解されなかったマティス芸術の数少ない理解者の一人でした。マティスはこれらの注文作品を通して、彼の目指す「新しい芸術」を実践しようとしました。


マティスの新しい芸術とは、フランスの伝統を受け継いで公明正大な明晰さと秩序を取り入れ、それによって、壮大な破壊と建設をすることで到達できるものでした。


そのためには、あらゆるものを犠牲にしなければなりませんでした。日々を捧げ、夜は夢の中まで追いかけられるうちに、私生活は次第に緊張が高まり、家族の暮らしも影響を受けました。


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アンリ・マティス「ダンス」1909-10年

とくに「ダンス」と「音楽」は時間をかけ、たった一人で、ギリギリまで集中して取り組む必要がありました。どうしても緊張を強いられ、積もり積もってパニックに陥りました。長引く不眠症に悩まされ、疲れ果て、自分の無能さに打ちひしがれ、いらいらして胸騒ぎがするのでした。


そうして出来上がった「ダンス」と「音楽」でしたが、1910年の10月1日にサロン・ドートンヌで初めて世間の目にさらされた時の反応は最悪でした。


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アンリ・マティス「音楽」1909-10年

以前にフォーヴの悪評が世間を騒がせた時と同じように、巨大な2枚のパネルの前に押し寄せた大勢の見物人は、侮辱の言葉を吐き散らしたのでした。


旧友たちもこの新作には怖気づき、同業の画家たちは憤慨しました。批評があまりにも辛辣だったので、マティス夫人は夫の目に触れないように隠さねばならないほどでした。


酷評される覚悟をしていたマティスは、開幕から1週間もしないうちにミュンヘンへ避難しました。ところが、その月の15日にマティスの父が心臓発作で急死してしまったのです。


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マティスの両親

この度も世間での悪名を高めて家族の名に泥を塗り、晩年の父に苦々しい思いをさせたと思うと、棺のあとに続く葬列の先頭にたって歩くのは苦痛でした。葬儀から1週間経っても、マティスは心底打ちひしがれてたままでした。


また、注文したシチューキンも作品の評判をかなり心配していました。実は彼の2人の息子が自殺してしまったのですが、それはシチューキンの美術に対する異常な趣味のせいだという心ない噂がささやかれていたのです。


ですから、「ダンス」と「音楽」を自宅に飾ったら、これまで家族が耐えてきたどんな仕打ちよりひどいスキャンダルが起こるかもしれませんでした。


そこで、シチューキンは注文した2点の作品の代わりに、ピュヴィス・ド・シャバンヌの作品を買うことにしたのですが、その大きな作品をお披露目する適当な場所がないため、画商はマティスのアトリエを貸してほしいといってきたのでした。


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ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ「芸術とミューズたちが愛する聖なる森」(一部)1884年

※シャヴァンヌの代表作、シチューキンが購入したものではありません

2年近くそのことしか考えてこなかった2枚の絵をシチューキンが拒否するなど、父の死による茫然自失の状態であったマティスにはとても信じられないことでした。


マティスのアトリエで過去の芸術と未来の芸術を比べてみた結果、自分の注文がいかに途方もないものだったかを身にしみて知ることになったシチューキンは、ピュヴィスを選び、すぐにモスクワに帰っていったのでした。


結局、シチューキンは心変わりを撤回して、注文した絵を買うことにしたのですが、父の死をきっかけにした一連の事件とそのときのマティスの無力さは家族にとっても大きな衝撃でした。


そのあと気晴らしに出かけたスペインで、マティスは完全な虚脱状態となり、不眠が続いて、倒れる寸前にまで陥りました。天候が悪化したこともあって、マティスはすっかり体調を崩し、部屋の中に閉じこもっていましたが、それは強いストレスを受け続けたために陥りやすい重いうつ状態だろうと診断されました。


そんなマティスを見かねた旧友が彼を自宅に引き取り、面倒を見てくれたおかげで、マティスはようやく最悪の危機を乗り越えることができました。


しかし、倦怠と極度の不快感は一月半ほど続き、動悸と発熱のために30分かせいぜい45分で仕事を打ち切らなければなりませんでした。また、不眠症はその年の大晦日まで続き、41歳の誕生日を迎えたマティスは老いと孤独が身にしみたと語っています。


41歳にして「老いと孤独が身にしみた」など普通では考えられませんが、それだけマティスが経験した苦悩が凄まじかったのでしょう。単純化されたマティスの作品は簡単に描かれたように見えますが、そこに至るまでには物凄いエネルギーを必要としたのですね。