雑話101「ジヴェルニーのモネの家②・・・巡礼の地」 | 絵画BLOG-フランス印象派 知得雑話

雑話101「ジヴェルニーのモネの家②・・・巡礼の地」

モネの家が人々を惹きつけるようになったのは、実はモネが存命中からでした。


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モネの肖像

ジヴェルニーは、モネが引越ししてきてから数年の間に芸術家たちによく知られた目的地になっていたのです。


彼らの多くはアメリカ人の画学生で、パリのアトリエを離れて、この魅力ある手ごろな場所に夏を過ごしにやってきました。


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ガイ・ローズ「遅い午後、ジヴェルニー」1910年

しかし、芸術家たちを引き付けた古きよき魅力は、やがて消えはじめました。


1887年に地元のカフェはホテルになり、小さな食料品店にもイギリスの紅茶、マシュマロ、メープルシロップのような外国の食品や、額縁、キャンバス、絵筆などを置くようになりました。


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現在のジヴェルニーにあるホテル”ボディ”

そして、10年もたたないうちに村の中心にはテニスコートができ、フランス人の訪問者たちは、ジヴェルニーで社交生活を送りたいと思えば英語を話せることが不可欠になってしまったとこぼすようにさえなったのです。


モネの家の近所に夏の家を手に入れ、現場で描かれたばかりのモネの作品を買うこともできた裕福なフランスびいきのアメリカ人もいましたが、どのようにして絵が出来上がるのかを習いに来るものもいました。


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セオドア・ロビンソン「村の眺め」1889年

モネは弟子を取ることには耐えられない性質で、はじめは新しい訪問客を快く迎えていたものの、そのうち「あのいまいましいアメリカ人ども」をますますうるさく感ずるようになっていました。


彼は当時の状況について”好奇心でいっぱいの〔アメリカの〕人々に取り囲まれずに田舎でスケッチをすることなど、できなくなってしまった。イーゼルと日よけ傘が雨後の筍のように庭の周辺に出現し、私を悩ませたので、荷物をまとめることを真剣に考えさえした”といっています。


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戸外で制作するモネ

しかし、多くの人々を引きつけたモネの家も、ジヴェルニーに住んでいた一族の最後の生き残りであったミシェルが荒れ果てるに任せたため、彼が亡くなって国家に寄贈したときには、作品をマルモッタン美術館に移さなければならないほどひどい状態になっていました。


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自宅の食堂のモネ

その後、1970年代と1980年代に、家と庭は、おもにアメリカ人からなるモネの愛好家たちによる委員会の出資により莫大な費用をかけて修復されました。


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修復された食堂

※ずいぶん派手になりました

掛けられる作品は複製になりましたが、こうしてジヴェルニーのモネの家はかつての美しい姿を取り戻し、現在の巡礼聖堂の地位への道を歩み始めたのです。


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現在のモネの家の部屋の一つ

※絵は全て複製画