雑話82「幸福な乙女の世界・・・ローランサン」
真っ白い肌をした妖精のような少女たちが登場する、不思議で可憐なローランサンの絵画は日本でも人気があり、特に女性にファンが多いようです。
マリー・ローランサン「女性とギター」1943年
ローランサンも先週のドランと同時期に活躍した作家ですが、初期の作品を除きどの流派にも属さず、独自の画風を確立させました。
彼女は画家としてはデビュー当時から非常に恵まれていました。まだ、女流画家という職業が社会に認知されていなかった時代に、通っていた画塾でブラックと知り合います。
後にキュビスムの創始者となったブラックを介して、ローランサンはピカソ、そして既に文壇でゆるぎない地位を確立していたアポリネールに出会います。
マリー・ローランサン「芸術家仲間」1908年
※ピカソ(左端)、アポリネール(中央)、ローランサン、ピカソの恋人のフェルナンド
アポリネールを中心とするサークルの一員となったローランサンはキュビスムや素朴派のアンリ・ルソーなどを影響を受けた絵画を創作します。
恋人となったアポリネールの擁護のもと、キュビストとの活動の場も増えていきますが、彼女自身はキュビスムの主流には違和感をおぼえ始めます。
マリー・ローランサン「家具つきの貸家」1911-12年
※キュビスムの流れを汲むとされている作品
実際にキュビスムに属しているとされている1912、1913年の彼女の作品ですら、初期のキュビスムの実験的なものと関連付けられているにすぎず、どう構図的に分析してもキュビスムには程遠いものです。
1910年ごろには青・緑・ピンク・グレーなど、彼女らしい色があらわれはじめ、色調も軽やかになっていきます。
しかし、順調に画業を進めていたかに見えたローランサンに逆風が吹き始めます。
女性問題でアポリネールと分かれたローランサンは、ドイツ人の貴族であったヴェッチェン男爵と電撃的に結婚しますが、その年の夏に起こった第1次世界大戦のせいで、敵国人となってしまいます。
マリー・ローランサン「棕櫚のそばの乙女」1915年
※スペインに亡命中の作品
祖国フランスにいられなくなったローランサンは夫と共にスペインに亡命しますが、フランスとドイツからスパイの嫌疑をかけられ、スペイン当局にも監視され、スペイン国内でも何度か転居を余儀なくされます。
そんな中、唯一頼りになるはずの夫は亡命者の負い目もあって、アルコール中毒になってしまいます。
終戦後は一時、ドイツの夫の実家の領地に滞在します。夫の親戚たちに囲まれて新しい家族を得たローランサンは安らぎを得て、その作品も明るさを取り戻します。
マリー・ローランサン「プリンセス」1920年
※夫の実家に住まいながら、パリとドイツを行き来していた頃の作品
しかし、アルコール依存症となった夫との関係は如何ともしがたく、7年もの亡命生活の果て、1921年に一人パリに戻ってきたのでした。
戦前は前衛画家として活躍したのに対して、パリに帰ってからは自分自身の楽しみとしての絵画を目指すようになりました。
すると、これまでのほとんどの作品に共通の基調であった憂愁の色が消え、彼女の作品は優美さと優雅さ、そして甘さのヴェールで官能性を包むようになりました。
マリー・ローランサン「ココ・シャネル嬢の肖像」1923年
戦後の好景気も手伝って、そんなローランサンの絵は大変な人気となり、上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することがシックなブームにまでなったのです。
流行画家となったローランサンは精神的にも経済的にも安定し、それに伴って彼女のパレットはどんどん華やかさを増していきました。また、画中の人物は肖像画でない限りほとんどがふっくらした少女になりました。
マリー・ローランサン「キス」1927年
これが現在もっとも知られている「マリー・ローランサンの幸福な乙女の絵」であり、それはこの時代以後に描かれたのです。
その後も世界恐慌や第2次世界大戦などの波乱がありましたが、ローランサンが画風を変えることはなく、亡くなるまで美しく輝く真珠や絹のスカーフで飾られた夢の世界の乙女たちを描きつづけました。
