雑話74「ポール・ゴーギャン・・・未開の地に憧れて」
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ポール・ゴーギャン「自画像」1893年
今から108年前の昨日は、南国の楽園の絵で有名なポール・ゴーギャンがポリネシアのマルキーズ諸島のヒヴァ=オア島で亡くなった日です。まだ、54歳でした。
ゴーギャンは西洋の価値観に反感を持ち、文明によって汚されていない社会を求めて移動を繰り返しました。
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現在のポン・タヴァン
※今でも多くの芸術家がここで制作しているそうです
彼が最初に自らの中に野生を発見したのは、フランス北西部のブルターニュ地方にあるポン・タヴァンという小さな村を訪れた時です。当時のポン・タヴァンには開発され尽くしていない自然環境の荒削りで神秘的な雰囲気に引かれて世界各地から多くの人々が集まっていました。
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ポール・ゴーギャン「ブルターニュの農婦」1894年
ゴーギャンは、そこら中に顔を出す文化の古層に人間の原初の姿を見出すと共に、そこに共鳴する自らの「内なる野生」を自覚したのでした。
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マルチニークの首都、フォール・ド・フランス
その「内なる野性」の声に忠実に生きようとしたゴーギャンは、1887年にカリブ海のマルチニーク島に旅してからは、「熱帯のアトリエ」に暮らす夢を持っていました。
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ポール・ゴーギャン「マルチニークのやしの木」1887年
1888年にヴァン・ゴッホと共にアルルで制作していた時も、芸術の未来の可能性が熱帯にあることを語り合っていました。
その夢想に拍車をかけたのが、1889年にパリで開催された万国博覧会です。会場に集められたジャワ舞踏をはじめとする異国の文化が、未知なる場所への憧憬をさらに掻き立て、自らを野蛮人と呼ぶようになったのです。
ついに、文明社会に別れを告げて、新天地を求めて南方へと旅立つことを決意したゴーギャンは、いくつかの候補の中から最終的にタヒチを選びました。
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タヒチ島の眺め
最初に到着したタヒチの首都パペーテで目にしたのは、フランスの植民地としてすでに文明化された街並みでした。それでも、ゴーギャンは島の反対側にあるマタイエアに移り住み、海を望む美しい自然と古いタヒチの面影を残すこの場所で、素朴な生活に溶け込もうと努めました。
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ポール・ゴーギャン「アレオイの種」1892年
南国の見慣れぬ自然や文化の戸惑いながらも、マオリの古代信仰に触れるなどして、ゴーギャンは次第にタヒチの生活の根底にあるものをつかんでいった。
1893年にタヒチでの多くの成果を手にフランスに帰国しますが、大きな期待とは裏腹にパリの美術界には受け入れられませんでした。深い挫折感を味わったゴーギャンは二度と祖国に戻らない覚悟で再びタヒチを目指しました。
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ポール・ゴーギャン「川岸の女たち」1893-94年
※タヒチの作品のプロモーションのために作ったタヒチ滞在記「ノアノア」の挿絵として制作された木版画
1895年に失意のなかでタヒチに到着したゴーギャンは、健康状態も思わしくありませんでした。持病の心臓病や梅毒の後遺症に加え、帰国中に骨折した脚の痛みのせいで起き上がることすら難しい状態でした。
1897年に最愛の娘の死を知らされたゴーギャンは死を決意した上で、自らの芸術の集大成となる「我々はどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」を制作しました。完成の後、自殺を図りましたが、失敗に終わります。
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ポール・ゴーギャン「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」1897-98年(※左半分)
1901年に最後の気力を振り絞って、マルキーズ諸島のヒヴァ=オア島に移りました。タヒチほど文明化されていなかったヒヴァ=オア島は未開の静けさを残しており、ここがゴーギャンの終の棲家となりました。
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ヒヴァ=オア島の眺め
最晩年の作品には、気力、体力の衰えによるものなのか、彼岸に向けての旅立ちを暗示するような静謐な気配が漂っています。
ポール・ゴーギャン「赤いマントをまとったマルキーズ島の男」1902年
どこに行っても馴染めなかったゴーギャンの人生は寂しい限りですが、彼の野生が求めた場所はどこもエキゾティックで美しい、まさにリゾート地といった場所ばかり!
機会があれば是非行ってみたいですね。