雑話71「マティス・・・癒やしの絵画」
マティスの肖像
先週のピカソと共に20世紀を代表する画家といえば、アンリ・マティスでしょう。
日本での人気・知名度はあまり高いとはいえませんが、マティスの作品は国際的なマーケットでは高く評価されており、実際にピカソと変わらないくらい高額で取引されています。
アンリ・マティス「音楽」1939年
マティスの作品の魅力はその明るい色彩とのびのびと描かれたデッサンで醸し出される感覚的な喜びに満ちた絵画世界です。
マティス自身も彼の目指す芸術について次のように述べています。
”私が夢みるのは心配や気掛かりの種のない、均衡と純粋さと静穏の芸術であり、すべての頭脳労働者、例えば文筆家にとっても、ビジネスマンにとっても、鎮静剤、精神安定剤、つまり、肉体の疲れをいやす良い肘掛け椅子に匹敵する何かであるような芸術である。”
そのようなマティスの芸術は、単なる視覚だけによる「豪奢と悦楽主義」だと非難されたこともありましたが、彼の画歴を振り返ればマティスが決して安易な快楽主義的な観念を持っていたわけではないことが分かるでしょう。
マティスがはじめて世間の注目を集めたのは、1905年のサロン・ドートンヌにドランやヴラマンクと共に激しい色調の作品を発表してからでした。
歴史上はじめてチューブから出たままの純粋な色彩を用いた絵画は、野獣派(フォービズム)と呼ばれ、「公衆の顔面に投げつけられた壺の絵の具」などと揶揄された反面、同時代の前衛画家たちに大きな影響を与えました。
アンリ・マティス「帽子の女」1905年
※批評家に「いまだかつて見たことのない恐ろしい汚点」とまで言われました
第1次世界大戦後、フォーヴを含め多くの前衛画家たちが自然主義的な描写とフランス美術の伝統的な古典主義に復帰していく中、マティスはフォービズムの流れをくむ作品を描き続けます。
1910年のサロン・ドトンヌに出品された「ダンスⅡ」と「音楽」は単純化された形態と簡明な色彩がセンセーションを引き起こし、それらはフォーヴ期以後のマティス芸術の一つの頂点を示す作品となりました。
アンリ・マティス「ダンスⅡ」1909-10年
※あまりに衝撃的だったため、注文主のシチューキンすら引取りを躊躇したほどでした
1920年代に入るとマティスは生活と制作の拠点をニースに移します。
この「ニース時代」の作品は優雅なオダリスクや室内画が多く、愛好家が少数の前衛的なグループから大衆的なブルジョワたちにまで広がって生きます。
アンリ・マティス「赤いズボンのオダリスク」1924-25年
以前の前衛的な作品は早い時期にフランス以外の個人コレクションに収まっていたため、このニース時代の作品がマティスの作品として世に知られるようになり、前述の「豪奢と快楽主義」と非難されることにつながりました。
1930年代からは平坦で装飾的なスタイルが復活し、抽象化された表現が始まります。
アンリ・マティス「桃色の裸婦」1935年
この時期描かれた「桃色の裸婦」を初期の「ダンスⅡ」と比較すると、マティス芸術の展開の内側には常に変わらぬものが存在し続けており、純粋化された手法がかつての豪奢でブルジョワ的な主題に適応されていることがわかります。
第2次世界大戦後、マティス芸術はさらに発展しました。
1940年に受けた腸炎の大手術のために、マティスは肉体的に絵画制作をする体力がありませんでしたが、彼はデッサンと本の挿絵、そして切り絵に情熱を注ぎました。
アンリ・マティス「王の悲しみ」1952年
その後マティスは、切り絵によって線と色彩の融合や、絵画と彫刻のジャンルに内在する特質の統合などを展開させ、晩年様式を見事に開花させたのでした。
シビアな社会に生きる我々現代人にとって、マティスが目指した肉体の疲れをいやす良い肘掛け椅子に匹敵するものは当時の人よりもっと必要かもしれませんね。
