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ギズムの圧倒的パフォーマンスで知られる法政大学ギグなど数々の伝説的ライブを体験したハッピーさんは山口に帰郷後、バンドを結成!
ハードコアという言葉すら認知度の殆どない時代に彼は東京で見たハードコアシーンを山口に広めようと試みた。
落語を機に覚えた人を惹きつける魅力、得意の話術とこっそり録ったライブテープ、そして東京時代に購入した自主制作盤が彼の武器だ。

結局スターリンのコピーを中心としたバンドを結成、それが前出のAcuteだ。

ワシはこのバンドを対バン前に見たことがある。
それは84年の夏。愚鈍がライブデビューする前。
ワシは当時はテキ屋のバイトをやってて、周南市の祭りでカキ氷を売ってたのだ。
休憩時間に地元の暴走族を捕まえてバイクにまたがり、爆走してたら祭りのステージから聞き覚えのある歌詞が聞こえてきた。
「吐き気がするほどロマンチックだぜ!」
そう
スターリンのロマンチストだ。
速攻、ワシはバイクを族に返してスターリンを歌ってるバンドのステージを観に行ったんだ。
ミチロウさんの如くケバいメイクをしたボーカルが客に目を剥き出して叫びまくってた。
それがハッピーさんだったんだよ(笑)
そのことは翌年に愚鈍が周南ライブに行った時に判明した。
「ガイくん、きてたんだー」
「甚平着て一番前で偉そうにみてたヤンキーがワシじゃけん(笑)」
なんて話でおおいに盛り上がった^ - ^

ワシの地元の広島でもハードコアなんて極一部の人しか知らなかった時代。まさか周南の有名な祭りでスターリンを聞けるとは思わなかったよ。

こういう公共の場も利用しながらハッピーさんは地元にハードコアを広めていってた。
スターリンのコピーバンドをやりたかったわけではないだろう。どうせなら彼が世界一好きなガーゼをやりたかったに違いないし、できればオリジナルをやりたかったと思う。それがパンクだからね。
かろうじてメジャーデビューしてたバンドをやるしかメンバーを集める方法がなかったんだと思う。同じ地方のパンクスとしてそれはとても分かる。

ライブも頻繁にやってたみたい。
今は亡き周南のライブハウス
ブギーハウスを拠点に。

彼のライブに、触発されて隣の防府市から
愚鈍のドラムおうみ、ガーゼの二代目ドラムのイチロー、SOB〜OUTO〜KGGMのタンクが地元でライブデビューする。

逆を言えば彼がいなければこの三人はハードコアパンクに出逢っていなかったろうと思う。
ガーゼの名作
イコライジングディストートはイチローのドラムなしでは考えれない。
OUTOやKGGMでメロディーメイクもしてたタンクがいなければ、どうだったのだろう。
オウミでなければ愚鈍のハウリングコミュニケーションは表現できなかったろう。

愚鈍にハッピーさんが加入して、当時の東京シーンを語り継ぐ事でハードコアにますますのめり込んだ広島パンクスも多かったに違いない。
黎明期の東京ハードコアシーンを見てたひとなんて地方にはそうそういない時代だからね。

前出のイチローを通してガーゼと知り合った愚鈍は活動の場を全国に広げていく。
自虐の頑張りはもちろんだけどハッピーさんの明るい性格と社交性があったのも間違いない。
ワシはただ二人についてくだけだから超楽だったけど(笑)
同時に、彼は地元山口にハードコアを広める役目も忘れてなかった。愚鈍は拠点のブギーハウスだけでなく、いろんな場所に出演した。彼が出演してたテレビ番組にも出演した。
時には創価学会の集会へ出演したこともある。
知ってるひとの間だけではハードコアは広がらないことをわかってたんだろうね。
ハードコアを体験したことのない信者千人の前でやるアウェイ感は半端なかったけど(笑)

とはいえ
植木等を地でいく陽気さといい加減さ
がマイナスに出たこともある。
年上に刃向かうことが一種のステイタスでもあったからよく文句も言ってたなー

いま考えるといい加減は
良い加減だったとも、思うが
当時は理解できんかったのよ。
いまでも一緒にいたら怒ってると思うけど(笑)

もっと広い世界を見たくなった自虐は東京へと活動の場を移した。
自虐あとのリーダーを勝手に任命されたワシは
ハッピーさんのいい加減さをモロに受けた。
自虐が脱退して2年。
ハッピーさんと数えきれない口論の末、愚鈍は解散が決定。
そのラストライブはブラッドサッカーからビデオとしてリリースされ、いまではユウチューブで簡単に観れる。
ハッピーさんは愚鈍脱退後、本来の頭の良さをいかして塾講師をやり始めた。
休暇を使い、印度などのアジアにハマり旅行に行きまくってた。

その後、スピリチュアリズムにハマりすぎて
カルト宗教にもハマった(笑)

それからは親不孝の連続だね。
カルトから脱却して自宅一部を改築して整体師を目指したハッピーさん。
修行をちゃんとしたわけではないから閑古鳥状態。そのうち酒にハマり、アル中の烙印を押された。元々、下戸だった人が大酒喰らうようになった。そのことこそがアル中の始まりなのだけど本人は酒が強くなったと勘違いしたらしい苦笑

ワシもいつの間にか疎遠になってた時期にハッピーさんの面倒をみてくれたのはザキとしゅう。彼ら二人がいたから両親も随分助かったと思う。
この二人もハッピーさんを通してハードコアにハマった男たち。喧嘩も強いが、なにより漢気に溢れてるナイスガイなんだ。

21世紀をほどなく過ぎてハードコアにもリバイバルの波がやってきた。
2009年1月、ハッピーさんの軽口から実現した愚鈍再結成ライブ。
まさに嘘から出た誠。ここでも植木等節炸裂(笑)
新宿ロフトに多くの動員を集め、過去のバンドと思ってた愚鈍が未だ必要とされてることを実感。
ライブを終演後
一週間あとだったと思う。
彼の肝硬変が判明。
一年限定で決まっていた再結成全国ツアーは全て中止となった。

それから彼の闘病生活が始まった。
肝硬変とアル中との闘いは5年続いた。
幻覚症状と肝臓の数値の悪化の不快感と闘いながら入退院を繰り返していた。
やがて、肝硬変は肝臓ガンへと悪化した2014年。
皆んなで見舞いにいったとき
もちろんザキもしゅうもいた。
ハッピーさんの容体はお世辞にも良いとは言えなかった。

そんななか
ワシの口から出た言葉は
「ハッピーさん
鉛の愛
ステージで歌ってみたくない?」

この状態で何を言ってるのか?
と周りの見舞客の時間が一瞬止まったとき

ハッピーさんは
「歌いたい」
と言ってくれた。

<続く>