恐れていた原発事故が2011.3.11に福島の地で起きてしまいました。早いもので、あれからもう12年になります。そこで、過去の記事を通して当時を振り返ってみることにしました。

 

 原発の「嘘」が発覚し、「嘘」の積み重ねが取り返しのつかない事態を招くということを学んだはずだったのに、今や「嘘」が政治に限らず社会のあらゆる領域・場面で流通するようになってしまっています。


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 <記載-2011.4.23-> 

 

 「だまされた」と、時々 “連れ合い”から言われることがある。当方には「だました」つもりはないから、この場合は「だまされた」“連れ”の方が一方的に責めを負うべきである。これはもっぱら機嫌のいい時に発せられる物言いだから、今のところは深刻な意味を持つものではなさそうである。仮に「だました」ことが事実であったとしても、これは二人の間で解決されるべき問題だから、他人に迷惑をかけるものではない。

 

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 先月の( 2011年 ) 3月11日に、史上最大規模の「原発事故」が起きてしまった。地震と「原発事故」による被災者の救済が何よりも急がれる。そして、事故の原因と責任の所在を明らかにするとともに、人知の及ぶところではない「原発」推進事業については、直ちにこれを廃止すべきである。

 

 

 

        

 

  

 さて、上掲の「週刊金曜日」のセンセーショナルな表紙のつくりには一瞬ドキッとさせられた。

 

 電力会社に群がる原発文化人として24人の名が表紙に掲げられている。15人ほどについては何とか名前や顔がわかるものの、その他の人については何の情報も持ち合わせていない。

 

 星野仙一氏が出演する原発のテレビCМについては承知しているが、それ以外の人が電力会社とどのような関係を築いていたかについては知るところではない。

 

 若い頃から反戦フォークソングを歌い、ざわわ ざわわ … と「さとうきび畑」を熱唱する森山良子さんの名が挙がっているのが意外だった。反戦的な立場と反核・反原発の思想は、必ずしも結びつくとは限らないのだろうか。

 

 「週刊金曜日」は、これに北野大氏を加えた25人に対して「事故後も原発を必要と思いますか」と質問しているが、原発は不要と言い切る人はなく、あいまいな返答や無回答が目立つものとなっている。

 

 電力会社や業界団体が「約2,000億円に達するとメディアで指摘され始めている ( 週刊金曜日 )」宣伝広告費を使って起用した文化人やタレントは、なんと150人以上にも上るようだ。(「総括原価方式」という仕組みによって、いったいどれほど儲けているのだろうか? )

 

  この人たちの中には、報酬と引き換えに仕事を熟したまでと開き直る者もいるだろうし、原発の危険性やずさんな管理体制について無知・無関心だったゆえに、今になって「だまされた」と悔やんでいる人もいるかもしれない。

 

「だました」あいつが悪いのか、それとも「だまされた」わたしが悪いのか。男女の間に限らず、この「だます」側と「だまされる」側の間には、なにやら微妙な問題が介在するようである。

 

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 ところで、来年度( 2012年度 )の新学習指導要領に「放射線」が登場するらしい。「放射線」について、原子力推進派にとっての“正しい考え方”を子どもたちに教え込もうというわけである。

 

 「らでぃ」というサイトを見ると、2011年1月29日に、これを先取りするかのように、「『原子力教育』模擬授業全国大会」なるものが行われていたことが分かる。以下のとおりである。

 

 環境やエネルギーについての理解を深め、子どもたちがきちんと考え行動できる正しい知識を―。1月29日(土)、東京・千代田区北の丸公園の科学技術館で、エネルギー教育全国協議会が主催する「第2回『 原子力教育 』模擬授業全国大会」(後援:日本教育新聞社、財団法人経済広報センター、協力:電気事業連合会)が開かれ、各地方の代表11名の教諭が全国から集まった約200名の参加者を前に、模擬授業を行った。なお、最優秀賞には〇〇〇子教諭、優秀賞には〇〇〇男教諭、〇〇〇一教諭、〇〇誠教諭、〇〇〇〇子教諭がそれぞれ輝いた。

 

 最後にエネルギー教育全国協議会の座長・向山洋一氏が、極めて高度な技術を持ちながら稼働率が低いため国際的に高く評価されない日本の原子力発電など、実践発表で取り上げられたテーマに触れながら「 例えばこの稼働率低下には正しい知識を持たないために、新潟中越沖地震によって被災した柏崎刈羽原子力発電所を、安全が確認されてもなお、2年間も稼動させないという現実があります。この背景には正しい知識を持っていないために、日本国民全体を覆っている原子力発電に対する“拒否感”の存在があることは否めません。こうした実態を解消するためにも、事実に立脚した正しい知識を子どもたちはもちろん、学校や地域にも広げて欲しい 」と呼びかけた。

                            

                2011年2月21日(日本教育新聞社)

 

 

  次に、模擬授業における「指導計画」二例を紹介してみる。

 

①   < 原子力を含むエネルギー教育一般部門

 

「原子力発電所の稼働率」

佐賀県基山町立〇〇小学校教諭 〇〇 誠

【授業のねらい】
稼働率を通して、日本の原子力発電技術を生かすためには正しい知識を持つことが大切だと気づかせる。

【授業のポイント】
刈羽原子力発電所の運転停止が稼働率全体を引き下げ、海外から低く評価されている実態を知り、日本の原子力技術を生かすためにどうすればよいか考えさせる。

【授業の流れ】
全9時間の4時限目。日本の原子力発電を作る技術は世界でも最高峰にもかかわらず、アラブ首長国連邦はそれを採用しなかった。理由が稼働率の低さだったことを通して、その原因がわずかに自然界の放射線量の10億分の1が漏れた事実を、センセーショナルに報道された結果であることを知り、正しい知識を持つことの重要性を理解させる。

 

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②   <原子力を含むエネルギー教育一般部門

 

「世界が注目する日本の最新原子炉技術」                                

兵庫県姫路市立〇〇〇小学校教諭 〇〇 〇〇子

【授業のねらい】
東芝の最新原子炉4S(小型高速炉)の可能性を通して、世界に貢献する日本について考えてもらう。

【授業のポイント】
一流の情報を取り入れ、子どもたちが日本に誇りを持つことを念頭に、従来の技術と比較しながら理解しやすいように工夫する。

【授業の流れ】
全16時間の13時限目。電気のないアフリカの乾燥地帯に原子炉を贈ろうと、あのビルゲイツ氏が4S(Super-Safe Small Simple)に注目し同社を訪れたことを知らせ、なぜ彼が4Sに着目したのか(1)完成までの時間が短縮可能(2)メンテナンスフリー(3)地下に埋められてさらに安全―という事実から説明し、日本で開発された最新技術が世界に貢献する可能性を実感させる。

 

   (〇印を施すことで配慮を試みた。)

 

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 まるで「原発」推進電力会社による出前授業のようであり、「教育」の名の下にこのような一方的価値観への誘導が堂々と行われていたというわけである。

 

 「原発」推進は「国策」であり、そもそも、「教育」は「国家のイデオロギー装置」( ルイ・アルチュセール )である。

 

 近代という時代に発達した家庭・学校・病院・工場・刑務所などの組織は、わたしたちの<社会>を支えるその一方で、わたしたちを<社会>の秩序に自発的に隷従する主体へと駆り立てていく。

 

 たとえば「学校」は、規律や訓練を強要することを通して、子どもたちの心と体を権力や権威に従順なものへと馴致していく。子どもたちが規律や訓練を通じてその<社会>の規範や価値観を内面化してしまうと、当然ながら、その<社会>の価値観に準じた行為については何の疑いも持たなくなってしまう。「監獄」に限らず「学校」においても同様に、「規律権力」( ミシェル・フーコー ) が作用しているということである。

 

 脱「学校化」を唱えるイヴァン・イリイチも、“ 学校制度 ”によって生みだされる疎外が無自覚のうちに人間性を破壊してしまう、というようなことを書いている。

 

 学校の果たすべき役割は、子どもたち一人ひとりが本来持っている力を発揮し、自らの意思決定により自発的に行動できるようにすること( エンパワーメント )である。

 

 子どもたちに必要なのは「教育」ではなく、知的好奇心にもとづいて自発的に「学ぶ」ことであり、またそれによって思考力も鍛えられることになる。そのような環境が整えられないのであれば、既存の「学校」は不要である。「学校」において重要と考えられている物事は、「学校」ではないまた別の「組織/場所」においても充分に保障し得る。

 

「原発」について言えば、子どもが生まれたその数年後の1979年に、米国・ペンシルヴェニア州のスリーマイル島に設置されていた原子力発電所が重大な事故を起こしている。そして、そのすぐ後に二人目の子どもが家族に加わってくれたが、それからしばらくすると、今度はチェルノブイリ原発事故(1986年 )が起きてしまった。

 

 子どもの誕生を契機に、平常運転時にも大気中や海や河川に放射性物質を放出し続けている原子力発電所や原子力推進関連事業に対し、とても敏感になった。それで、市民学者・高木仁三郎さんの著書を読んだり、細々と続けられていた学習会などにも参加したりするようになった。また、長年「臨海学舎」を実施してきた海辺に原子力発電所が造られるというので、実施場所を変えたり、「臨海学舎」それ自体を廃止してしまったりしたことも経験している。そうしたことを想い起こすと、やるせない気持ちでいっぱいになる。

 

 それはさておき、大人であれ子どもであれ、誰もが「原発事故もそれによる放射線被曝も容認できない」という立場にあるとすれば、このような授業を受けた子どもたちは完全に「だまされた」ことになる。そして、この教員たちは子どもたちを「だました」ことになる。

 

 この人たちは、「だました」ことを自覚的に反省しているのだろうか。それとも、自分たちもまた誰かに「だまされた」として、被害者の立場を装っているのであろうか。そうであるなら、これから何度も繰り返し「だまされる」ことになるだろう。そしてまた、自分の影響下にある人たちを「だます」に違いない。

 

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 「だまされる」ということの意味、あるいはその責任について考えるとき、伊丹万作さんの次の考察が参考になるだろう。

 

 ……だまされたとさえいえば、いっさいの責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 

 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

 

 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。

 

 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであって、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といってよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。

 

 また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったらとしたら今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。

 

 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。

 

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁(ちょうりょう)を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

 

 「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹(あんたん)たる不安を感ぜざるを得ない。

 

「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

 

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追及ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじゃく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。………

 

 (「映画春秋」昭和二十一年八月号/伊丹万作エッセイ集 (ちくま学芸文庫))

 

 ちなみに、半世紀以上も前に著された福田恆存「私の幸福論」にも次の一節がある。

 

 ……「だまされた」と平気でいうひとたちは戦争中はまだ子供で自分が確立されていなかったから「だまされた」のであり、今日は、自分が確立できたから、その「だまされた」という事実に気づいたというのでしょう。そして「だまされた」自分は自由でなかったが、それに気づいたいまの自分は自由に目覚めているとでもいうのでしょう。そんなことはありません。そういうひとたちは、現在、自分というものに、また自由というものに、この二つの新しい幻影にだまされはじめただけのことです。

 

 こうして「だまされた」をくりかえしていたのでは、私たちは、生涯、永久に自分の宿命に到達できません。顧みて悔いのない生活はできません。さきにもいったとおり、私たちの欲しているのは、いわゆる幸福で不自由のない生活ではなく、不幸でも、悲しくても、とにかく顧みて悔いのない生涯ということでありましょう。あとで顧みて、いくらでも書きかえのきくような一生を送りたくないものです。

 

 もちろん過去のあやまちを認め、これをただすのはいい。なるほど部分的には、そういうことも起こりましょう。しかし根本的には、私たちは私たち自身の過去を否定してはなりません。どんな失敗をしても、どんな悪事を働いてもいいから、それが自分の本質とかかわりがない偶然のもの、あるいは他から強いられてやったもので、本来の自分の意志ではないというような顔をしないこと、自分の過去を自分の宿命として認めること、それが真の意味の自由を身につける第一歩です。自分の過去を否定し、それをまちがいだったといって憚らぬのは、結局、自分の出発点を失うことになり、未来の自分も葬り去ることになります。宿命を認めないことは、自由を棄てることになります。

 

 自由と宿命の関係は大変むずかしいもので、私には、多くのひとが思いちがいをしているとしか考えられません。今日、自由平等を強調するひとたちは、やりようによっては、人間にはなんでもできると思いこんでいる。十九世紀の末、一度、行きづまりに陥った自然科学も、最近では原子力の利用によってふたたび活気づき、それに社会科学の発達が結びついて、人々は人間の未来を前途洋々たるもののようにおもいがちです。が、これは明かに錯覚です。自由には限界があるばかりでなく、その限界がなければ、私たちは自分が自由であると感じる喜びさえ、もちえないのです。この限界をとりはずしてしまうと、自由は自由ではなくなり、苦痛となります。無際限な自由は、じつは自由そのものにとって、邪魔者とさえなるのです。


 私たちは出発点においても、また終着点においても、宿命を必要とします。いいかえれば、はじめから宿命を負って生れて来たのであり、最後には宿命の前に屈服するのだと覚悟して、はじめて、私たちはその限界内で、自由を享受し、のびのびと生きることができるのです。そうしないで、いたずらに自由を求めてばかりいると、落ちつきのない生活を送らねばならなくなります。みんな神経衰弱に陥ってしまいます。神経衰弱、あるいは現代の流行語でいえばノイローゼというのは、自分を操る術を失うことです。なんでも操れる自由をものにしようとしたため、自分自身が操れなくなるという奇妙な結果に陥るのです。…


       福田恆存評論集 第17卷 「私の幸福論」所収『自由について』より

 

                    ( 福田恆存「私の幸福論」)

 

 

  < だまされた人の悲しみ >

 あなたが誰かをだましたりすると、その人は悲しむ。

 だまされたことで何か損を受けたから、その人は悲しんでいるのではない。その人がもうあなたを信じ続けられないということが、その人を深く悲しませているのだ。

 今までのようにあなたをずっと信じていたかったからこそ、悲しみはより深くなるのだ。
                    ニーチェ『善悪の彼岸』(超訳)