- 2024.7.10 -

 

  

 白人を美の規範とし、肌の色で人間を「白色人種」「黄色人種」「黒色人種」( 三大人種 )に分類するという「人種差別主義」。このような帝国主義時代の西洋的な人種概念は、現代社会においても通念として根強く残っているようです。

 

 さて、わたしたち人間をめぐる物語は太古の昔のアフリカにおいて始まったとされます。二足歩行を始めた人類はそして、気の遠くなるような長い時間をかけて発生の地アフリカから世界の各地へと移住していったようです。彼らは、それぞれの移住地の環境に適応することで生命を守り継いできたということになるでしょう。地球の多様な生態系で生き残るために、それぞれの環境下において最適化を図る方向に進化を遂げてきたということ。その最適化の現象の一つが「肌の色」です。

 

 肌の色については、黒褐色の色素「メラニン」によってその色調の差異(濃淡)が決まります。体表面に紫外線を浴びると、肌表皮の基底層にあるメラノサイト(メラニン形成細胞)においてメラニンが生成されることになります。

 

 紫外線を必要以上に浴びると皮膚に傷害や悪性腫瘍(皮膚がん)などが発生することは、よく知られているところです。メラニンは、太陽から降り注ぐ紫外線を吸収することで紫外線によるDNAの損傷を防ぐ役割を果たしている、とされています。皮膚細胞の上部に留まるメラニンが紫外線を吸収することで、下方にある重要なビタミンの一つ「葉酸」(造血ビタミン)の量が激減するのを防いでくれている、とも言われています。

 

 赤道付近は太陽に最も近く、したがってそこには強い紫外線が降り注ぎます。赤道直下に居住するアフリカの人々の肌が最も濃い黒色の色調にあるというのは、現象として理に適っているということです。

 

 全ての人類は一つの「種」ホモ・サピエンスに属するのであって、「ヒト」を人種に分類できる遺伝的指標は存在しない、というのが現在における遺伝学的認識です。故に、「人種」は社会的構成概念という意味においてのみ存在する、と言えるでしょう。

 

 肌の色の差異にもとづく「人種差別」は、変えようのない生物学的形質に対する偏見に過ぎません。経済発展や技術の発達に地域差が生じている現実や過去に奴隷制の歴史が存在するといったことなどが、「人種差別」意識をより強固なものにしているのかもしれません。

 

 ところで、いわゆる「黒人」が「白人」になることはできません。「日本人」が「フランス人」や「ドイツ人」ほかになることもできません。「男性」として生まれた人が「女性」として生きることは可能ですが、「男性」が「女性」になることはできません。逆もまた然りということになりますが、生物学的にはたぶんそう言えると思います。自分が○○人としてあるということや、また、顔立ちがどうであるとか背が高いとか低いとかといった類の身体的差異も、偶然のうちに備わってしまっている形質( 偶有的属性 )であって、そこのところは変えようがありません。

 

 すると、人間にとって「本質」( 存在するものの基底・本性をなすもの )とか「本質的属性」( 偶有的な属性に対して、一定の事物またはその概念にとって必要欠くべからざる性質で、それを否定すれば当の事物そのものを否定してしまうことになるようなもの ) に値するものとは何だろう、という疑問がわいてきます。

 

 それについては、「偶有的属性」として現象している諸々の形質といったものを「捨象」することによって明らかにすることができるように思われます。

 

 人間の根本をつかさどるもの、それはその人の「精神(性)」や「生き方」である、ということになるでしょう。肌の色や容姿や性別といった「偶有的属性」については黙ってそれを引き受けることしかできませんが、「精神」や「生き方」というのは自らの意思や力で自由に選び取ることができるものとしてあります。したがって、そこには「責任」という概念が発生するということになるはずです。

 

 そのように考えを進めていくと、人間には二つの「人種」が存在するということに気づかされます。人間は、その「精神(性)」や「生き方」において「貴」と「賤」・「利他主義」と「利己主義」・「善人」と「悪人」・「正直者」と「嘘つき」・「賢者」と「愚者」…… などに分類されると。

 

 二分されるこれらの対立概念を一括りにして表すことのできる適切な言葉が見つかりません。そうは言っても、これらは人間の「品性」にまつわる言葉ですから、仏教哲学を援用することにして、とりあえず「上品(じょうぼん)」と「下品(げぼん)」に大別することにしておきましょう。人間には「上品」と「下品」という二つの「人種」( 階級 )が存在する、ということです。

 

 出自や職業などに「貴賤」はありませんし、経済的豊かさや生産性の差異などにおいても人間としての「優劣」はつけられません。人間においては、その「精神(性)」や「生き方」だけが問われることになるようです。

 

 

付記

 

 人としての「精神(性)」や「生き方」を問うものとして真っ先に想い出すのは、オルテガ・イ・ガセット(「大衆の反逆」) による「貴族」と「大衆」という概念です。

 

 オルテガのこれらの定義について自分なりに解釈を施すことにすると、「貴族」とは『 自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする、高貴な精神性を有する人々 』となり、「大衆」とは『 物事の是非や善悪を弁別しようと努めることなく、ただただ「みんなと同じ」であると感じることだけに価値を置き、そこに快感や安心感を見出して生きている人々 』というふうになります。

 

 そう言えば、2020年に始まった「コロナ禍」という状況にあっては、「みんながそうするのだから、それに従え……」とする「集団同調性バイアス」の作用にもとづく言動が具体的な容をとって表面化しました。例えば、抽象化された「同調圧力」という権力に踊らされた一部の人たちは、自ら進んで『マスク警察』や『自粛警察』となり、個人の価値観にもとづくマスクの着脱の自由を取り締まったり、「みんな」からの逸脱者を攻撃したりしました。また、「治験」のことなどそっちのけで多くの人々がワクチン接種会場に押し寄せるという光景も見受けられました。

 

 ちなみに、ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」においては、「超人」と「末人」という人間のありようが対立概念として提示されています。

 

 はてさて、我らはいかに生きるべきや!