間宮林蔵は隠密だった
■4月13日<今日の雑学>
1775年(80年説もあり)に常陸の農家に生まれた間宮林蔵は、その数理の才によって幕政の蝦夷地御用掛となり、伊能忠敬に測量術を学び、東蝦夷や択捉島を測量した。ロシアの南下によって北辺日本が騒がしくなってきた1808年4月13日、幕命により松田伝十郎とともに樺太調査に出発し、樺太が離島であることを確認。翌年には海峡を渡ってシベリアに入り、黒竜江下流地帯を調査、デレンに至った。晩年は幕府の隠密として働き、シーボルト事件(オランダ商館医シーボルトが28年に帰国する際、積荷から伊能の『大日本沿海輿地全図』など禁制品が発見されスパイの嫌疑をかけられた)の密告者ともされる。しかし、皮肉なことにシーボルトは32年に樺太とアジア大陸との間を「間宮海峡」という名で世界に紹介したため、世界地図に間宮の名が残ることとなった。
1775年(80年説もあり)に常陸の農家に生まれた間宮林蔵は、その数理の才によって幕政の蝦夷地御用掛となり、伊能忠敬に測量術を学び、東蝦夷や択捉島を測量した。ロシアの南下によって北辺日本が騒がしくなってきた1808年4月13日、幕命により松田伝十郎とともに樺太調査に出発し、樺太が離島であることを確認。翌年には海峡を渡ってシベリアに入り、黒竜江下流地帯を調査、デレンに至った。晩年は幕府の隠密として働き、シーボルト事件(オランダ商館医シーボルトが28年に帰国する際、積荷から伊能の『大日本沿海輿地全図』など禁制品が発見されスパイの嫌疑をかけられた)の密告者ともされる。しかし、皮肉なことにシーボルトは32年に樺太とアジア大陸との間を「間宮海峡」という名で世界に紹介したため、世界地図に間宮の名が残ることとなった。