平成18年の年間自殺者数32155人。

いまや避けては通れない重大な社会問題である。


かといって、自殺は世相を反映しているとも言えない気がする。

自殺の理由や原因や方法がどれほど似通っていようが、それは便宜上のことで、ひとりひとりの自殺には残された我々生者にとっては計り知ることのできない重みと決断があったはずなのだから。


社会のせい、人のせい、己のせい。

何の理由で死んだかは重要ではない。

生きていればいつかは取り戻せたかもしれない過去を背負って、自ら命を絶ってしまったこと。

その事実は二度と変わらない。

自殺によって、その人の人生は永遠に凍りついたままだ。


そして、ひとりの自殺によって生まれるのは、悲しみという新たな暴力だ。

その傷は、残された人々にも深く刻まれて永遠に消えない。


自分の自殺によって生み出される効果というものを、ほとんどの自殺者は知っている。


それぞれの事情、それぞれの理由。

しかし、死を選ぶ人と選ばない人との違いは何なのだろう。


あとがきに添えられた、ジャーナリスト・大谷昭宏氏の言葉が総括する。

<本当に自殺の動機、その死の意味するところは、(註1)死に行く者にさえわからないのではないという気もする。ごく稀ではあるが、自殺者が、遺言の中に事実と異なることを認めていることもある。人は死しても嘘をつくというのではない。死を前にして、死んで行く意味をつかみかねているのだ。だとすれば、生者がなおのこと、その自殺の動機など語れるはずもないのである。>


(註1)死に行く者にさえわからないのではないという気もする。

本文では、<死に行く者にさえわからないのではないという気もする。>

というように、「か」の一文字が無い。

この一文字があるかないかで真逆の意味になってしまうのだが、前後の文脈から見ると、「か」は誤植ミスで脱落したのではないかと思われたので、勝手に付け加えさせて頂きました。




この本に挙げられた118人には、事件性のあったものや著名人の自殺が年代ごと(昭和20年~平成9年まで)に採りあげている。時代が下れば下るほど、科学捜査の不備や政治的配慮などにより、それぞれの自殺には謎も多い。

 

しかし、我々に与えられた課題は、自殺の謎を解くことではなく、なぜ自殺はいけないことなのかを考えることである。


その死に関しての描写が酷くどぎついのは、興味本位の猟奇的な描写が目的ではなく、自殺への抑止力としての著者の配慮なのだと、切に思いたい。





若一 光司
自殺者―現代日本の118人