救急救命士法44条2項の解釈はどうあるべきか | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

救急救命士法についての裁判例がない、というのは、これまで救急救命士法の適用や法の解釈が問題になるような救急救命士法違反を問う裁判がなかった、少なくとも私は知らない、という趣旨である。

国家賠償法関係の民事裁判例や和解事例はあるが、これは一般の行政サービスに係る損害賠償請求事案と本質的に異なるところがなく、国家賠償法についての一応の理解があれば誰でも対応が出来る分野だと思っているから、私の講義ではそれほど重視していない。

やはり問題になるのは、救急救命士の業務をどうとらえるべきか、ということである。
病院救急救命士や民間救急救命士の皆さんが安心してその業務を遂行できるようにするにはどうしたらいいのだろうか、救急救命士法の規定をどう解釈するのがいいだろうか、ということをいつも考えている。

特に次の規定をどう解釈するか、で救急救命士の活動の態様が大きく変わる。

「救急救命士法
(特定行為等の制限)
第四十四条  救急救命士は、医師の具体的な指示を受けなければ、厚生労働省令で定める救急救命処置を行ってはならない。

2  救急救命士は、救急用自動車その他の重度傷病者を搬送するためのものであって厚生労働省令で定めるもの(以下この項及び第五十三条第二号において「救急用自動車等」という。)以外の場所においてその業務を行ってはならない。ただし、病院又は診療所への搬送のため重度傷病者を救急用自動車等に乗せるまでの間において救急救命処置を行うことが必要と認められる場合は、この限りでない。

第五十三条  次の各号のいずれかに該当する者は、六月以下の懲役若しくは三十万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
一  第四十四条第一項の規定に違反して、同項の規定に基づく厚生労働省令の規定で定める救急救命処置を行った者
二  第四十四条第二項の規定に違反して、救急用自動車等以外の場所で業務を行った者 」

救急救命士は、厚生労働大臣の免許を受けて、救急救命士の名称を用いて、医師の指示の下で救急救命処置を行うことを業とする者をいう(救急救命士法2条2項)とされているのだが、その救急救命士が①医師の具体的指示を受けないで特定行為を行った場合、及び②救急用自動車等以外の場所で業務を行った場合(ただし、病院又は診療所への搬送のため重度傷病者を救急用自動車等に乗せるまでの間において救急救命処置を行うことが必要と認められる場合は、この限りでない。)に処罰されることになっているので、具体的に如何なる行為が処罰の対象となるのかを明らかにしておく必要がある。

第44条第2項の「業務」が具体的に何を指すのか、ということと、「ただし、病院又は診療所への搬送のため重度傷病者を救急用自動車等に乗せるまでの間において救急救命処置を行うことが必要と認められる場合は、この限りでない。」というただし書きをどう解釈するのか、という二つの問題がある。

文言上は必ずしも明らかではないが、ここに言う「業務」はあくまで救急救命処置のことであって、そもそも救急自動車等の中で実施することが想定されていない救急救命処置以外の救護・救助活動、応急手当の実施、受け入れ医療機関との連絡調整、医師等への連絡、各種記録の作成、一般人に対する救護・救助の技術指導、学校等に赴いての救護・救助教育等々はこれに含まれていないというのが私の解釈である。

「病院又は診療所への搬送のため重度傷病者を救急用自動車等に乗せるまでの間において救急救命処置を行うことが必要と認められる場合」の業務(私の解釈に寄れば、救急救命処置)の解釈も問題になるが、 私はこれも出来るだけ広く解釈することを提唱している。

そこまで広く解釈していいのかしら、という疑問を抱く人もおられるかも知れない。

しかし、救急救命士法53条が処罰の対象としているのはあくまで実質的に可罰的違法性がある違法行為だけだ、というのが私の基本的な見解である。
実質的に可罰的違法性がないのに、文理解釈上では法の明文規定に抵触する可能性があるのではないか、と言われても、そういう解釈はあまりにも杓子定規で、法の趣旨には合わないから取り得ない、と答える外ない。

へえ、弁護士ってそんなことを考えるのかしら、と思われるかも知れない。

皆さんの頭を柔軟にしていただくために、私が参考文献として紹介する長尾龍一氏の「法哲学入門」(講談社学術文庫)の一節を紹介しておこう。

以下、長尾龍一氏の「法哲学入門」より抜粋:

「なぜ国内の賭博は犯罪で、国外の賭博は適法なのか。なぜ大々的に行われる公営ギャンブルは適法で、それに附随する小ぢじんまりとした賭博行為(いわゆるノミ行為)などは違法なのか。『それは現行法がそう定めているからだ』としか答えようがない。」
「実定法に関する限り、法は正義と一応別のものである。平等が正義だと信ずる人も、象徴天皇制が日本の実定法であることを承認せざるをえない。堕胎は殺人だと主張する人々も、『経済的理由』による堕胎が日本の現行法(優生保護法14条1項4号)で合法であることを認めざるをえない。実定法は、正義から一応独立した、独立の体系である。」

「永遠不変の絶対的正義を信ずる理想主義者は、実定法にしばしば幻滅する。第一に、それは、国や時代によって違う。(中略)第二に、それは力関係によって左右される。(中略)第三に、実定法は立法者の恣意や過失によっても左右される。例えば刑法245条の電気窃盗の規定は、詐欺・恐喝には準用されながら(251条)、横領には準用されていず、その結果として、財産罪の「財物」自体は有体物で、245条、251条は創設規定であるという解釈を不可避にしている。ところが、これは、管理可能性説に立った旧刑法下の判例をくつがえす逆行であり、おそらくは立法者意思にも合致しない。」
「このような実定法に対する不信感は、結局は人間の自己自身に対する不信感に由来する。この不信感から生ずる不安を回避するために、立法者や法の適用者を超人間的・神的なものだと信じ、また他人に信じさせる迷信的方法もある。王権神授説やわが国における天皇機関説排撃運動なども、このような潮流に属する。裁判官を非人間的な法の化身とする信仰も、このような迷信の一事例だろう。」

「しかし、人間が自己に不信感を抱く限りにおいて、実定法へのこのような不信感が不可避であると同時に、人間が自己を信じうる限度においては、実定法もまた信頼の対象となる。」
「第一に、法が社会技術の一つである限りで、人間の技術的知性の産物であることである。(中略)第二に、人間不信も行き過ぎると非現実的になる。(中略)合理的制度は「平均人」をモデルとし、公益と私益を結合させようとする。立法が、内外の立法例を参酌して慎重に行われている限り、実定法は多少ともこのような合理性をもっている。」
「全体としては、実定法は、よかれ悪しかれ人間性の拡大図である。」
「彼(墨子のこと)によると、上古において人々はおのおの『義』を異にした。『一人は一義、十人は十義、百人は百義』、こぷして義と義の闘争が生ずる。そこで、この状態を克服するために、賢者を選んで天子とし、『天下の義を一同」せしめた、と。法の解釈についても同様のことがある。たdっし、法の許容する枠の中で・・・・。」

「このように、甲説・乙説・丙説というような可能な諸説は、墨子の「義」のように、おのおのの正当性を主張して相争う。このような状況を放置すると、裁判官によって解釈が異なり、役所の窓口によって扱いが異なるということになり、法的安定性が損なわれ、公正を欠くことにもなる。そこで、公定解釈によって「義を一同」せざるをえなくなる。最高裁判所の最大の任務の一つは、法令の解釈の統一にある。」

「このように考えてくると、法の解釈と呼ばれるものも、可能な解釈、「良い」解釈、公定解釈という3種類のものに区別さるべきことがわかる。可能な解釈とは、法の枠内で許容されている解釈であるが、それは大抵複数ある。この複数の可能な解釈は必ずしも等価的ではなく、「良い解釈」と「良くない解釈」があると思われる。従来の法解釈学はこの「良い」解釈を求めて努力してきたといってもよい。法解釈に客観性があるならば、すなわち「良い」解釈を客観的に知りうるならば、一番「良い」解釈だけが可能な解釈だということになり、可能な解釈と「良い」解釈は一致する。それに対し、何が「良い」解釈かの判断が主観的なものであるならば、それをめぐって争いが起こり、したがって公定解釈が求められざるをえなくなる。公定解釈を発する行為は、多様な可能性の中から一つの可能性を選ぶ行為であり、一緒の立法行為である。」

「法律家は、制度のモデルを考案する社会技術者であり、先例があるならばその先例を基礎として、法の条文があるならばその条文を基礎として、制度のモデルを考案することを職業とする。」
「ケルゼンは、法の解釈もまた立法と同様の法創造行為だといっている。それは、高度のイマジュネーションを必要とする創造的な知的活動であり、法解釈の問題の解説を、個々の条文についての「解釈方法」の列挙から始めるのは本当は誤っている。個々の条文の解釈は、このようなモデルの制約条件の問題にすぎない。」