ことさらに日本や日本人を貶めるために嫌がらせのような形態で慰安婦像を設置されてしまうことについて一般の国民が顔を顰めるのは自然な反応である。
そんな嫌がらせは何の役にも立たないのに、と思うが、同時にそれだけ韓国の人たちの心が未だに傷ついているのかということを考えると、まあ、この程度は我慢しなければならないか、とも思う。
傷付いた人たちの心の傷は、傷付いていない人にはなかなか分からない。
これから100年も200年もこういうことを引き摺って行くのかと考えると、心が痛む。
嫌いだ、と言い募っている人を好きになることは難しい。
嫌いだ、嫌いだと言い募っている相手のところにはなるべく近づかないようになる。
嫌いだ、と面と向かって言われてしまうと、誰だってムッとする。
ムッとしたところでムッとした思いを口に出すと碌なことはないから、思慮深い人は黙ってその場を立ち去るが、そんな人はそれほど多くない。
大抵の人は何か言い返すだろうと思う。
嫌いが、嫌いを呼ぶ。
嫌日が、嫌韓を呼ぶ。
嫌いの連鎖を何とかして断ち切りたい。
どうにかしなければと思うが、目下のところどうしようもない。
私のブログの熱心な読者の方から、過日次のブログの紹介があった。
「慰安婦問題で、日本が国際的な理解を得るためには、何が必要なのか?
http://synodos.jp/international/5579」
逆転の発想である。
慰安婦像の撤去を求める訴訟を提起しても訴えの利益がないとか、具体的法益の侵害がないとして請求が棄却ないし却下されてしまうだろうことは見やすい道理である。
むしろ、日本側が率先して慰安婦像の設置をするぐらいの誠意を示す方が国際的な理解を得やすいし、日本と韓国の間に根強くあるわだかまりの解消に貢献するのではないか、という発想は柔軟である。
まあ、愛国を標榜する方々からボコボコニされてしまいそうな提案だが、このくらいの懐の広さを持つことは重要だと私は思うが、如何だろうか。